奈良県天理市布留町384(出雲建雄神社)
訪問日:2014年10月16日夕方
石上神宮の摂社のご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。
出雲建雄神社
・草薙の剣の霊威
天神社
・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
・神皇産霊神(かみむすびのかみ)
七座社
・生産霊神(いくむすびのかみ・中央)
・足産霊神(たるむすびのかみ・生産霊神の右)
・魂留産霊神(たまつめむすびのかみ・生産霊神の左)
・大宮能売神(おおみやのめのかみ・足産霊神の右)
・御膳都神(みけつかみ・魂留産霊神の左)
・辞代主神(ことしろぬしのかみ・右)
・大直日神(おおなおびのかみ・左)
このうち、天神社と七座社が鎮魂八神で、これらの神々と、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を併せてお祀りしているとのこと。
天神社と七座社のご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 コトシロヌシも入っている鎮魂八神は、『古語拾遺』において、初代神武天皇が即位する時、アマテラスとタカミムスヒノカミの勅に従って、 神籬を建てて祀った八神。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られており、宮中八神とも言います。
大直日神は、古事記においては、イザナギが黄泉の国から帰還した後の禊で、「その穢れ、その禍(まが)を直そうとして」生まれた三柱、つまり、カムナオビノカミ、オオナオビノカミ、イヅノメとされています。
石上神宮の摂社・天神社の全体像、俯瞰してみます。 天神社の二社は、タカミムスヒノカミとカミムスヒノカミ。古事記でもお馴染みです。 天神社の近接撮影。天神と言えば、今では菅原道真公の天神様が主流ですが、もともとこの二柱も天の神という意味で、いわば元祖天神。
イザナギとイザナミが子作りがうまくいかない時に相談したのも、古事記では天神とされ、この二柱の他にもう三柱、つまり別天神(ことあまつかみ、別天津神とも)の五柱だとされています。 天神が道真公ではないことや、ご由緒から考えて、やはり天神社は、七座社とともに、上古から御鎮座になっている神々と言えそうです。ただ、そうすると、境内にある牛の像は一体。。。 七座社です。 さて、出雲建雄神社。 出雲建雄神社の斜めから。右側は末社の猿田彦神社。 ご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 スサノヲがヤマタノオロチを退治する時に振るった十拳剣。今はその御霊がここ石上神宮の本殿で祀られています(フツシミタマ)が、ヤマタノオロチの尾を切り刻む時、欠けました。尾の中に別の剣が入っていたためです。スサノヲはこのヤマタノオロチの尾から取れた剣を、姉アマテラスに献上します。後の草薙の剣です。
天武天皇(在位は天武天皇2年(673年)-朱鳥元年(686年))の時代、当時の神主が布留川の上に八重雲が立ちわき、 その雲の中で神剣が光り輝いている、 という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、 8つの霊石があって、 神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣され、というのです。
ここで出てくる尾張氏の女は明らかにミヤズヒメ、ヤマトタケルの妻の一人です。ヤマトタケルが結婚して初夜を迎えたばかりのミヤズヒメの家に愛剣の草薙の剣を置きっぱなしにして伊吹山の神退治に出かけますが、返り討ちに遭って、間もなくミヤズヒメにも草薙の剣にも再会することなく帰らぬ人となります。
こうして、ミヤズヒメは草薙の剣を預かる形となり、これをお祀りします。これが熱田神宮の原型と言われています。そのため、熱田神宮と、この出雲建雄神社は同体とされます。つまり、草薙の剣をお祀りしている、と。また石上神宮では、十拳剣(フツシミタマ)の子が草薙の剣とされ、そのため、この若宮とも呼ばれるようになったといいます。
さて、経緯は以上なのですが、では、なぜ「出雲」なのでしょうか。あるいは「出雲建雄」という人名なのか。スサノヲのことだ、という説もあるようで、確かにスサノヲと出雲のかかわりの深さからすれば正論でしょうし、説話の中の「八重雲」もいわばスサノヲの代名詞。ただ、スサノヲにそのような別名はなく、草薙の剣を見つけ出し、姉に貢いだだけでは、少し弱いような気もします。
石上神宮と出雲ということで言えば、第十一代垂仁天皇の御世、皇子のイニシキイリビコに大刀一千振りを「鳥取」で作らせて奉納させた、という記事があります。が、これは関係なさそう。
草薙の剣で言えば、ヤマトタケル。熊襲建(くまそたける)を暗殺し、その帰路に出雲にも立ちより、出雲建(いずもたける !?)をも謀殺。その謀殺の方法は出雲建の剣を騙し取り、ほぼ丸腰の中で騙し討ちするもの。出雲建、さぞ恨んでいることでしょう。THE 怨霊。
それにしては、出雲建が騙し討ちされた現場やその陵墓の伝承が伝わっていません。斐伊川沿いなので、西谷墳墓群(島根県・出雲市)が現場付近でしょうか。
ともかく、そのため、その後ヤマトタケルは出雲建の剣も所持していたと思われます。その後帰還したヤマトタケルは、父である第十二代景行天皇に今度は東国遠征を命じられ、伊勢にいた、叔母のヤマトヒメから草薙の剣を渡されるのです。
この後、ヤマトタケルの代名詞ともなる草薙の剣ですが、この際、出雲建の剣はどうなったのか、もちろんそこまで細かいことは古事記に記載はありません。ヤマトタケルの死後、遺品の整理ということで、同じ剣である草薙の剣を祀っていたミヤズヒメのところに届けられた、かもしれません。
そうなると、上記の説話とも矛盾なくつながり、この神社が「出雲建雄」を冠しているのは、名前が激似、というかほぼそのままの出雲建にちなむ、ということに。真に祀られているのは、自身を殺すことになる出雲建自身の剣、なのかもしれません。結局、それが出雲健、ヤマトタケルの御霊も安らげ、草薙の剣の霊威の表れにもなる、というと、こじ付け杉?
ともかく、出雲建雄神社の拝殿。国宝です。 出雲建雄神社と言えば、本来こちらをメインにしなければならないのかもしれませんが、「なぜ出雲なのか?」が気になって気になって。
この拝殿は、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃絶後大正3年に移築したもので、中央に一間の「馬道」と呼ぶ通路を開く割拝殿の典型的なもの、とされています。正安2年(1300年)頃の建立とされ、こちらも石上神宮の拝殿と同じく、鎌倉期のもの。木造建築なのに良く残ってくれて、本当に感謝です。
出雲建雄神社の本殿の向かって右手に隣接する猿田彦神社。 言うまでもなくサルタヒコ、なのですが、配祀神が豪華。底筒男神(ソコツツノヲノカミ)、 中筒男神(ナカツツノヲノカミ)、 上筒男神(ウハツツノヲノカミ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)。
前四柱は住吉三神と神功皇后で、高靇神は古事記でオカミノカミとして登場しています。住吉三神と神功皇后はセットで語られることが多いので良いとして、オカミノカミは古事記においては出雲王家に娘を嫁を出した神として記載があります。
出雲王家としましたが、いわゆる十七世神(とまりななよのかみ)。スサノヲの子どもが第一で、オカミノカミの娘は第二のフハノモヂクヌスヌに嫁いでいます。かのオオクニヌシは十七世神の第六となります。
とにかく、ここでも出雲。
サルタヒコとともに祀られるこれらの神々の由縁は、となると、また妄想が膨らむので、ここまでとしておきます。宝物、国宝の宝庫にとどまらない、神話の要素そのものが詰まった石上神宮とその摂社・末社でした。 古事記紀行2014 > (5)石上神宮 > 出雲建雄神社 【関連記事】
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訪問日:2014年10月16日夕方
石上神宮の摂社のご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。
出雲建雄神社
・草薙の剣の霊威
天神社
・高皇産霊神(たかみむすびのかみ)
・神皇産霊神(かみむすびのかみ)
七座社
・生産霊神(いくむすびのかみ・中央)
・足産霊神(たるむすびのかみ・生産霊神の右)
・魂留産霊神(たまつめむすびのかみ・生産霊神の左)
・大宮能売神(おおみやのめのかみ・足産霊神の右)
・御膳都神(みけつかみ・魂留産霊神の左)
・辞代主神(ことしろぬしのかみ・右)
・大直日神(おおなおびのかみ・左)
このうち、天神社と七座社が鎮魂八神で、これらの神々と、禍(わざわい)や穢(けがれ)を改め直す大直日神を併せてお祀りしているとのこと。
天神社と七座社のご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 コトシロヌシも入っている鎮魂八神は、『古語拾遺』において、初代神武天皇が即位する時、アマテラスとタカミムスヒノカミの勅に従って、 神籬を建てて祀った八神。後に宮中神祇官の八神殿において御巫に齋き祀られており、宮中八神とも言います。
大直日神は、古事記においては、イザナギが黄泉の国から帰還した後の禊で、「その穢れ、その禍(まが)を直そうとして」生まれた三柱、つまり、カムナオビノカミ、オオナオビノカミ、イヅノメとされています。
石上神宮の摂社・天神社の全体像、俯瞰してみます。 天神社の二社は、タカミムスヒノカミとカミムスヒノカミ。古事記でもお馴染みです。 天神社の近接撮影。天神と言えば、今では菅原道真公の天神様が主流ですが、もともとこの二柱も天の神という意味で、いわば元祖天神。
イザナギとイザナミが子作りがうまくいかない時に相談したのも、古事記では天神とされ、この二柱の他にもう三柱、つまり別天神(ことあまつかみ、別天津神とも)の五柱だとされています。 天神が道真公ではないことや、ご由緒から考えて、やはり天神社は、七座社とともに、上古から御鎮座になっている神々と言えそうです。ただ、そうすると、境内にある牛の像は一体。。。 七座社です。 さて、出雲建雄神社。 出雲建雄神社の斜めから。右側は末社の猿田彦神社。 ご由緒です。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 スサノヲがヤマタノオロチを退治する時に振るった十拳剣。今はその御霊がここ石上神宮の本殿で祀られています(フツシミタマ)が、ヤマタノオロチの尾を切り刻む時、欠けました。尾の中に別の剣が入っていたためです。スサノヲはこのヤマタノオロチの尾から取れた剣を、姉アマテラスに献上します。後の草薙の剣です。
天武天皇(在位は天武天皇2年(673年)-朱鳥元年(686年))の時代、当時の神主が布留川の上に八重雲が立ちわき、 その雲の中で神剣が光り輝いている、 という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、 8つの霊石があって、 神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣され、というのです。
ここで出てくる尾張氏の女は明らかにミヤズヒメ、ヤマトタケルの妻の一人です。ヤマトタケルが結婚して初夜を迎えたばかりのミヤズヒメの家に愛剣の草薙の剣を置きっぱなしにして伊吹山の神退治に出かけますが、返り討ちに遭って、間もなくミヤズヒメにも草薙の剣にも再会することなく帰らぬ人となります。
こうして、ミヤズヒメは草薙の剣を預かる形となり、これをお祀りします。これが熱田神宮の原型と言われています。そのため、熱田神宮と、この出雲建雄神社は同体とされます。つまり、草薙の剣をお祀りしている、と。また石上神宮では、十拳剣(フツシミタマ)の子が草薙の剣とされ、そのため、この若宮とも呼ばれるようになったといいます。
さて、経緯は以上なのですが、では、なぜ「出雲」なのでしょうか。あるいは「出雲建雄」という人名なのか。スサノヲのことだ、という説もあるようで、確かにスサノヲと出雲のかかわりの深さからすれば正論でしょうし、説話の中の「八重雲」もいわばスサノヲの代名詞。ただ、スサノヲにそのような別名はなく、草薙の剣を見つけ出し、姉に貢いだだけでは、少し弱いような気もします。
石上神宮と出雲ということで言えば、第十一代垂仁天皇の御世、皇子のイニシキイリビコに大刀一千振りを「鳥取」で作らせて奉納させた、という記事があります。が、これは関係なさそう。
草薙の剣で言えば、ヤマトタケル。熊襲建(くまそたける)を暗殺し、その帰路に出雲にも立ちより、出雲建(いずもたける !?)をも謀殺。その謀殺の方法は出雲建の剣を騙し取り、ほぼ丸腰の中で騙し討ちするもの。出雲建、さぞ恨んでいることでしょう。THE 怨霊。
それにしては、出雲建が騙し討ちされた現場やその陵墓の伝承が伝わっていません。斐伊川沿いなので、西谷墳墓群(島根県・出雲市)が現場付近でしょうか。
ともかく、そのため、その後ヤマトタケルは出雲建の剣も所持していたと思われます。その後帰還したヤマトタケルは、父である第十二代景行天皇に今度は東国遠征を命じられ、伊勢にいた、叔母のヤマトヒメから草薙の剣を渡されるのです。
この後、ヤマトタケルの代名詞ともなる草薙の剣ですが、この際、出雲建の剣はどうなったのか、もちろんそこまで細かいことは古事記に記載はありません。ヤマトタケルの死後、遺品の整理ということで、同じ剣である草薙の剣を祀っていたミヤズヒメのところに届けられた、かもしれません。
そうなると、上記の説話とも矛盾なくつながり、この神社が「出雲建雄」を冠しているのは、名前が激似、というかほぼそのままの出雲建にちなむ、ということに。真に祀られているのは、自身を殺すことになる出雲建自身の剣、なのかもしれません。結局、それが出雲健、ヤマトタケルの御霊も安らげ、草薙の剣の霊威の表れにもなる、というと、こじ付け杉?
ともかく、出雲建雄神社の拝殿。国宝です。 出雲建雄神社と言えば、本来こちらをメインにしなければならないのかもしれませんが、「なぜ出雲なのか?」が気になって気になって。
この拝殿は、内山永久寺(現在廃寺)の鎮守社の拝殿を同寺廃絶後大正3年に移築したもので、中央に一間の「馬道」と呼ぶ通路を開く割拝殿の典型的なもの、とされています。正安2年(1300年)頃の建立とされ、こちらも石上神宮の拝殿と同じく、鎌倉期のもの。木造建築なのに良く残ってくれて、本当に感謝です。
出雲建雄神社の本殿の向かって右手に隣接する猿田彦神社。 言うまでもなくサルタヒコ、なのですが、配祀神が豪華。底筒男神(ソコツツノヲノカミ)、 中筒男神(ナカツツノヲノカミ)、 上筒男神(ウハツツノヲノカミ)、 息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、 高靇神(たかおかみのかみ)。
前四柱は住吉三神と神功皇后で、高靇神は古事記でオカミノカミとして登場しています。住吉三神と神功皇后はセットで語られることが多いので良いとして、オカミノカミは古事記においては出雲王家に娘を嫁を出した神として記載があります。
出雲王家としましたが、いわゆる十七世神(とまりななよのかみ)。スサノヲの子どもが第一で、オカミノカミの娘は第二のフハノモヂクヌスヌに嫁いでいます。かのオオクニヌシは十七世神の第六となります。
とにかく、ここでも出雲。
サルタヒコとともに祀られるこれらの神々の由縁は、となると、また妄想が膨らむので、ここまでとしておきます。宝物、国宝の宝庫にとどまらない、神話の要素そのものが詰まった石上神宮とその摂社・末社でした。 古事記紀行2014 > (5)石上神宮 > 出雲建雄神社 【関連記事】
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