京都府向日市埋蔵文化財センターと立命館大が、同市寺戸町にある3世紀半ば~後半の大型前方後円墳「五塚原古墳」で進める発掘調査で、次々と重要な成果が出ているといいます。卑弥呼の墓といわれる「箸墓古墳」(奈良県桜井市)との類似点が発見され、近くにある日本最古の祭殿施設があった「中海道遺跡」との関連も指摘。古代史を解明する上で鍵となる可能性が高まり、研究者から注目を集めています。京都新聞が報じています。写真は五塚原古墳。(出典:向日市観光協会)
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五塚原古墳(いつかはらこふん)は、古墳時代前期の全長約91.5メートルの前方後円墳。後円部は直径54メートル、高さ9メートル前方部は幅36メートル、高さ4メートル。今回の調査で、3世紀半ば~後半の築造であることが明らかになったようです。
箸墓古墳(はしはかこふん)は、纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。全長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。最新の研究では、やはり3世紀半ば~後半の築造とされています。
今回の調査では、五塚原古墳が箸墓古墳をモデルに作られたことが裏付けられたと言います。箸墓古墳にしかない特徴を二つ、五塚原古墳が有していることが確認できたのです。
一つは、側面にある段の平坦面が、後円部とのくびれ部から前方部の端に向けて勾配があり、先端は大きくせり上がっている「斜路状平坦面(しゃろじょうへいたんめん)」といわれる構造。もう一つは、平坦面が前方部と後方部のくびれ部で途切れている点。
五塚原古墳は、時代としては近くにある中海道遺跡と近接しています。中海道遺跡は、弥生時代後半を中心とする村の跡で、1995年に「祭殿」が発見されました。「祭殿」は、東西8メートル、南北8.6メートルの掘立柱の建物で、周囲には溝が巡らされています。溝から発見された土器から3世紀中頃のものと判断されました。祭殿復元図などはこちらから。
この両者がどのようなつながりがあるのか、今のところ時代の近接以外には関連は発見できていないようですが、今後の研究に期待したいところです。
箸墓古墳は古事記にもヤマトトモモソヒメとして、系譜のみ登場する皇女の陵墓に比定されています。日本書紀などでは、ヤマトトモモソヒメが箸墓に葬られたとあり、この古墳が古来より箸墓と伝えられてきたことによるもののようです。一方で、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓ではないかと指摘する声もあります。
箸墓古墳は宮内庁管轄だったので、調査が難しかったのですが、近年、ようやく少しずつ調査が進むようになってきています。とは言え、今回の五塚原古墳が箸墓古墳をモデルに築造されたのであれば、五塚原古墳に対する今後の調査・研究で、五塚原古墳のみならず、箸墓古墳の実態解明にも大きく寄与するはずです。
箸墓古墳がいかに重要な皇女とはいえ、一皇女の墓としては巨大すぎるきらいもありますが、であるならば、五塚原古墳がもしかすると周辺地域にゆかりの深い、古事記の登場人物が眠っている、という可能性も捨てきれません。個人的にはこの方面に興味がやはり向きます。
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五塚原古墳(いつかはらこふん)は、古墳時代前期の全長約91.5メートルの前方後円墳。後円部は直径54メートル、高さ9メートル前方部は幅36メートル、高さ4メートル。今回の調査で、3世紀半ば~後半の築造であることが明らかになったようです。
箸墓古墳(はしはかこふん)は、纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。全長およそ278メートル、後円部は径約150メートル、高さ約30メートルで、前方部は前面幅約130メートル、高さ約16メートル。最新の研究では、やはり3世紀半ば~後半の築造とされています。
今回の調査では、五塚原古墳が箸墓古墳をモデルに作られたことが裏付けられたと言います。箸墓古墳にしかない特徴を二つ、五塚原古墳が有していることが確認できたのです。
一つは、側面にある段の平坦面が、後円部とのくびれ部から前方部の端に向けて勾配があり、先端は大きくせり上がっている「斜路状平坦面(しゃろじょうへいたんめん)」といわれる構造。もう一つは、平坦面が前方部と後方部のくびれ部で途切れている点。
五塚原古墳は、時代としては近くにある中海道遺跡と近接しています。中海道遺跡は、弥生時代後半を中心とする村の跡で、1995年に「祭殿」が発見されました。「祭殿」は、東西8メートル、南北8.6メートルの掘立柱の建物で、周囲には溝が巡らされています。溝から発見された土器から3世紀中頃のものと判断されました。祭殿復元図などはこちらから。
この両者がどのようなつながりがあるのか、今のところ時代の近接以外には関連は発見できていないようですが、今後の研究に期待したいところです。
箸墓古墳は古事記にもヤマトトモモソヒメとして、系譜のみ登場する皇女の陵墓に比定されています。日本書紀などでは、ヤマトトモモソヒメが箸墓に葬られたとあり、この古墳が古来より箸墓と伝えられてきたことによるもののようです。一方で、魏志倭人伝にある卑弥呼の墓ではないかと指摘する声もあります。
箸墓古墳は宮内庁管轄だったので、調査が難しかったのですが、近年、ようやく少しずつ調査が進むようになってきています。とは言え、今回の五塚原古墳が箸墓古墳をモデルに築造されたのであれば、五塚原古墳に対する今後の調査・研究で、五塚原古墳のみならず、箸墓古墳の実態解明にも大きく寄与するはずです。
箸墓古墳がいかに重要な皇女とはいえ、一皇女の墓としては巨大すぎるきらいもありますが、であるならば、五塚原古墳がもしかすると周辺地域にゆかりの深い、古事記の登場人物が眠っている、という可能性も捨てきれません。個人的にはこの方面に興味がやはり向きます。
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