景行天皇陵「山邊道上陵」 お堀 - ぶっちゃけ古事記
奈良県天理市渋谷町357

訪問日:2014年10月16日午後

山辺の道を、大神神社→石上神宮方向へ、大兵主神社から歩いて行き、ようやくお堀が見えてきました。

景行天皇陵「山邊道上陵」です。
景行天皇陵「山邊道上陵」 宮内庁看板
渋谷向山古墳(奈良県・天理市)と呼ばれます。
景行天皇陵「山邊道上陵」拝所遠景 - ぶっちゃけ古事記
江戸時代までは崇神天皇陵だと思われていたようです。
景行天皇陵「山邊道上陵」拝所近撮 - ぶっちゃけ古事記
全長310メートル、前方部幅170メートル高さ23メートル、後円部径168メートル高さ23メートル。古墳ランキングでは、日本で第七位。
景行天皇陵「山邊道上陵」拝所左側から - ぶっちゃけ古事記
景行天皇は第十一代垂仁天皇の皇子で、第十二代天皇。妹に初代斎宮とも言うべき、ヤマトヒメがいます。
景行天皇陵「山邊道上陵」拝所とその前の広場 - ぶっちゃけ古事記
古事記では、オオウスとオウスの父として登場しますが、オウス改めヤマトタケルが前面に出てくるようになり、どちらかというとヤマトタケルを恐れ疎んじる父、という役回りになります。
景行天皇陵「山邊道上陵」拝所、去り際遠めから - ぶっちゃけ古事記
景行天皇陵を後にして、崇神天皇陵に向かった途中に、上の山古墳の石碑がありました。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。
上の山古墳の石碑(景行天皇陵近く) - ぶっちゃけ古事記
さらに行くと、山辺の道とその眺望スポットの案内板がありました。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。景行天皇陵と崇神天皇陵の位置関係など参考になるかもしれません。
山辺の道とその眺望スポットの案内板(景行天皇陵近く) - ぶっちゃけ古事記
日本書紀には自身で九州征伐に出かけた記事が記載されています。真偽は分かりませんが、ヤマトタケルを恐れ疎んじるばかりではなく、精力家だったことは間違いありません。皇子・皇女合わせて実に子どもは80人、オオクニヌシの180柱に匹敵する子だくさんです。

これら多くの子は、ヤマトタケルや後に即位する第十三代成務天皇など三人の皇子を除いて、いずれも全国各地に派遣した、と古事記にはあります。こうした、崇神天皇、垂仁天皇から続く、領土拡張への仕事が、日本書紀の九州征伐という記事に影響を与えた、のかもしれません。

しかし、成務天皇は子をなすことなく崩御し、その後を継いだのはヤマトタケルの子である第十四代仲哀天皇。仲哀天皇は実際、九州まで出向いたと思いますが、そこで不可解な急死。仲哀天皇の皇后である神功皇后を間にはさんで、第十五代が応神天皇です。

応神天皇は仲哀天皇と、神功皇后の子というのが公式発表ですが、仲哀天皇の急死のことを含めて考えると、神功皇后の子ではあるかもしれませんが、父は仲哀天皇以外の誰か、という可能性もあり、鵜呑みにはできません。

もしそうであれば、子だくさん景行天皇の血筋はここで途絶えることになります。大多数の皇子や皇女を全国各地に派遣してしまって、中央の基盤が弱くなった、ということなのかもしれません。
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