大兵主神社の鳥居 - ぶっちゃけ古事記
奈良県桜井市穴師493

訪問日:2014年10月16日午後

相撲神社に隣接するように鳥居がありました。相撲神社は、大兵主神社(穴師坐兵主神社)の摂社です。

相撲神社と鳥居は隣接していますが、その参道は一般道とも思われるようなものも含め、かなり長く、数百メートル単位。かなり奥まったところに鎮座している、という印象です。
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ご由緒がありました。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。
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大兵主神社  大和国 穴師兵主神社

御祭神
若御魂神社(右)
兵主神社(中)
大兵主神社(左)

御創建
崇神天皇六十年

御由緒
当社は三神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、2000年前の御創建にかかり、延喜の制で名大社に列せられ、祈念、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄五年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。

御神徳
衣食住を守護し、風水を司る。

ご由緒を過ぎてもしばらく参道を行きます。
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拝殿が見えてきました。
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拝殿正面です。
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拝殿近撮。
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拝殿の全景です。
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ご由緒がありました。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。
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大兵主神社
若御魂神社(右)
兵主神社(中)
大兵主神社(左)

(中略)中央の神は、第十代崇神天皇の六十年命を受けて、皇女倭姫命が創建され、天皇の御前の守護神として祀られ、御食津神と申し上げ、生産と平和の神、又、知恵の神として、崇敬を受けられました。

右の神は天孫降臨の際の三種の神器をご守護された稲田姫命をお祀りし、芸能の神として崇敬を受けておられます。

左の神は、第十二代垂仁天皇の御代に当地で初めて天覧相撲が催され、御神体の矛にちなみ、武勇の神とし、相撲の祖神として、スポーツ界の信仰をお受けになっておられます。(原文ママ)

拝殿と奥の本殿。
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本殿をズーム。
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拝殿と相対する位置で、向かい合った形で祀られていた二つの社の内に一つ、末社の一つでしょうか。
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もう一つのお社。上下のお社が向かい合う形になっています。
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帰路、参道です。
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極めていろいろな説がある、その意味では謎の多い神社であり、御由緒にも、特に後者については若干の誤謬が見られますが、おそらくは第十代崇神天皇の六十年、第十一代垂仁天皇の皇女であるヤマトヒメが創建に関わったことは間違いなさそうです。

ヤマトヒメと言えば、アマテラスを最終的に伊勢にお祀りした、初代斎宮とも言うべき、古代日本における極めて重要な皇女ですが、ここでもお仕事をされていました。

若御魂神社のご祭神は名前から見てもクシナダであることは間違いありませんが、天孫降臨、三種の神器、芸能の神ということで言えば、明らかにアメノウズメを指しているものと思われ、クシナダとアメノウズメが習合した珍しい例かもしれません。また、その性質上の御食津神、つまりトヨウケビメノカミの親に当たるワクミムスヒを当てる説もあるようです。

相撲神社を摂社に持ち、大兵主神社神域内とも明記される「カタヤケシ」を内包し、創建後まもなくと思われる時期に天覧試合が行われたことから、相撲や武術、さらにスポーツにまでご利益があることも間違いないところでしょう。ここではやはり気になるのが「矛」。普通に考えれば、古事記にはありませんが、日本書紀などで記述のある、国譲りにおけるオオクニヌシの広矛でしょうか。

そのため、大兵主神社のご祭神は、八千戈命、つまりオオクニヌシ、とする説もあります。その他、矛からの連想として、天日矛などを指摘する声もあるようです。

とにかく、2000年の歴史は間違いなくある古社です。
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