奈良県桜井市穴師475
訪問日:2014年10月16日午後
檜原神社から景行天皇陵に向かう山辺の道。その分岐点で右(東)に折れ、進むと。
相撲神社です。祭神 野見宿禰公の石碑と鳥居。 鳥居をくぐってすぐ右手、桜井ライオンズクラブ寄贈の野見宿禰像がありました。完全に現代の力士姿ですが。 そのご由緒。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 今を去る上古約2000年前垂仁天皇七年七月乙亥(七日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿禰(のみのすくね)、当麻蹶速(たいまのけはや)による日本最初の勅命天覧相撲が催されました。これが世界に誇るわが国国技相撲の曙光であります。
爾来相撲が国技として国家大本の行事とされ、悠々の今日に至っています。
日本書紀に「野見宿禰はすなわち都にとどまりて仕へまつる」とあり当地に屋敷を賜り古代国家草創期における大和朝廷国土開拓の推進者として貢献されました。その偉大な特を偲びここカタヤケシを日本民族の象徴的聖地として世に知られています。
さて、境内の様子。 小さなお社が残るのみです。 そのご由緒。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 国技発祥の地 天覧角力・開祖 相撲神社
国に国歌、国花があるが如く日本の国技は相撲である。相撲はもとは神の信仰から出て、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり、第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰と当麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世、宮中の行事となった。
昭和三十七年十月六日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に二横綱(大鵬、柏戸)五大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭が行われ、この境内のカタヤケシゆかりの土俵において、手数入りが奉納された。
お社左手にある石碑「勝利之聖」、野見宿禰の絵が彫り込まれています。 お社。 お社全景。 古事記には、垂仁天皇の御世のことについては詳述している方なのですが、野見宿禰やカタヤケシは出てきません。野見宿禰と関連すると思われるものとして、皇后であるヒバスヒメの時、「垂仁天皇は石棺作りを定め、また土師部(はにしべ)を定める」とある程度になります。土師氏は野見宿禰が祖であり、この土師氏から後世、菅原道真が出ます。野見宿禰は天神の祖でもあるわけです。
野見宿禰を祀る神社としては、兵庫県たつの市と東京都墨田区にある野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)がありますが、こちらは正真正銘の「カタヤケシ」、ご由緒にも合った通り、そのまま「聖地」です。
訪問した時は参拝者一人おらず、一人ゆっくりと、神社境内の中央にある土俵跡(カタヤケシゆかりの土俵?)、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに4本植えられている桧の木などを鑑賞しながら散策、2000年前の光景のイメージに努めました。
ここには確かに、古事記でも主役の一人と言っていい、垂仁天皇の御世の息吹が残っているような感じがしました。 古事記紀行2014 > (4)景行・崇神天皇陵 > 相撲神社 【関連記事】
・【古事記紀行2014】(4)古事記に登場する景行天皇陵・崇神天皇陵は要チェック
・土師氏の墓所と推定される“素焼きの棺”赤田横穴墓群、新たな横穴式石室 - 奈良
訪問日:2014年10月16日午後
檜原神社から景行天皇陵に向かう山辺の道。その分岐点で右(東)に折れ、進むと。
相撲神社です。祭神 野見宿禰公の石碑と鳥居。 鳥居をくぐってすぐ右手、桜井ライオンズクラブ寄贈の野見宿禰像がありました。完全に現代の力士姿ですが。 そのご由緒。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 今を去る上古約2000年前垂仁天皇七年七月乙亥(七日)大兵主神社神域内小字カタヤケシにおきまして野見宿禰(のみのすくね)、当麻蹶速(たいまのけはや)による日本最初の勅命天覧相撲が催されました。これが世界に誇るわが国国技相撲の曙光であります。
爾来相撲が国技として国家大本の行事とされ、悠々の今日に至っています。
日本書紀に「野見宿禰はすなわち都にとどまりて仕へまつる」とあり当地に屋敷を賜り古代国家草創期における大和朝廷国土開拓の推進者として貢献されました。その偉大な特を偲びここカタヤケシを日本民族の象徴的聖地として世に知られています。
さて、境内の様子。 小さなお社が残るのみです。 そのご由緒。写真をクリックすると大きな写真で確認できます。 国技発祥の地 天覧角力・開祖 相撲神社
国に国歌、国花があるが如く日本の国技は相撲である。相撲はもとは神の信仰から出て、国土安穏、五穀豊穣を祈る平和と繁栄の祭典であり、第十一代垂仁帝の七年、野見宿禰と当麻蹶速が初めて天皇の前で相撲をとり相撲節(七月七日)となりそれがもとで後世、宮中の行事となった。
昭和三十七年十月六日、大兵主神社に日本相撲協会時津風理事長(元横綱双葉山)を祭主に二横綱(大鵬、柏戸)五大関(琴ヶ浜、北葉山、栃ノ海、佐田ノ山、栃光)をはじめ、幕内全力士が参列。相撲発祥の地で顕彰大祭が行われ、この境内のカタヤケシゆかりの土俵において、手数入りが奉納された。
お社左手にある石碑「勝利之聖」、野見宿禰の絵が彫り込まれています。 お社。 お社全景。 古事記には、垂仁天皇の御世のことについては詳述している方なのですが、野見宿禰やカタヤケシは出てきません。野見宿禰と関連すると思われるものとして、皇后であるヒバスヒメの時、「垂仁天皇は石棺作りを定め、また土師部(はにしべ)を定める」とある程度になります。土師氏は野見宿禰が祖であり、この土師氏から後世、菅原道真が出ます。野見宿禰は天神の祖でもあるわけです。
野見宿禰を祀る神社としては、兵庫県たつの市と東京都墨田区にある野見宿禰神社(のみのすくねじんじゃ)がありますが、こちらは正真正銘の「カタヤケシ」、ご由緒にも合った通り、そのまま「聖地」です。
訪問した時は参拝者一人おらず、一人ゆっくりと、神社境内の中央にある土俵跡(カタヤケシゆかりの土俵?)、土俵の盛り土の四隅には四本柱の代わりに4本植えられている桧の木などを鑑賞しながら散策、2000年前の光景のイメージに努めました。
ここには確かに、古事記でも主役の一人と言っていい、垂仁天皇の御世の息吹が残っているような感じがしました。 古事記紀行2014 > (4)景行・崇神天皇陵 > 相撲神社 【関連記事】
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