県道161号側から望む綏靖天皇陵の入口 - ぶっちゃけ古事記
奈良県橿原市四条町328
北緯34度50分10.24秒 東経135度78分93.47秒

訪問日:2014年10月16日午前

神武天皇陵を後にし、県道161号をさらに北上すること五分程度で到着です。

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古事記で「衝田岡(つきだのおか)」とされる初代神武天皇の皇子で、第二代綏靖天皇の御陵、つまり桃花鳥田丘上陵(つきだのおかのえのみささぎ)です。考古学名は四条塚山古墳(奈良県・橿原市)。

神武天皇の場合、都が現在の橿原神宮、御陵が畝傍山をはさんでその東北にある畝傍山東北陵と、皇居と御陵が極めて近かったのですが、綏靖天皇は都を現在の奈良県御所市森脇(古事記による葛城高岡宮)にしていますので、御陵とは直線距離でも北東に向かって数キロから十数キロ離れていることになります。

整備は行き届いていますが、神武天皇陵と比べると幅も奥行きも小規模な綏靖天皇陵の参道。宮内庁の看板が右手に見えます。
綏靖天皇陵の参道、右手に宮内庁看板を見ながら - ぶっちゃけ古事記
参道を進み、拝所を望みます。
綏靖天皇陵の参道から拝所を望む - ぶっちゃけ古事記
もう間もなくで、拝所前の広場に到着。
綏靖天皇陵の拝所前の広場 - ぶっちゃけ古事記
拝所に到着。
綏靖天皇陵の拝所 - ぶっちゃけ古事記
拝所を近距離で撮影。
綏靖天皇陵の拝所、近距離 - ぶっちゃけ古事記
右側から拝所を望みます。
綏靖天皇陵の拝所、右側から撮影 - ぶっちゃけ古事記
左側から。
綏靖天皇陵の拝所、左側から撮影 - ぶっちゃけ古事記
神武天皇陵の時にも触れましたが、この御陵は以前、神武天皇陵に治定されていたことがあります。また、この御陵が綏靖天皇陵に治定されるまでにも二転三転ありました。

江戸時代、この御陵が神武天皇陵に治定された際、綏靖天皇陵はちょうどこの御陵や現在の神武天皇陵の真西に数百メートルにある慈明寺町のスイセン塚古墳(前方後円墳、墳丘長55メートル)とされていました。

幕末修陵に際して改められ、明治11年(1878年)にこの御陵が綏靖天皇陵に治定された、というのが経緯です。

参道も拝所の前の広場も、拝所そのものも、神武天皇と比べて一回り小さい綏靖天皇陵。神武天皇陵には参拝・散策の方が見えたのに比べて、ここには人っ子一人いませんでした。古事記では印象的な登場で、ある意味皇位を自身の手で掴む皇子として描かれており、存在感は決して小さくはないのですが、やはり初代は別格、ということでしょうか。

こじんまりとはしていましたが、だからこそ感じる風情。神武天皇が東遷後に見初め、崩御後に前妻との子タギシミミに奪われるほどの美女イスケヨリを母に持ち、そのタギシミミが反逆を企てていると知った時には、兄カムヤイミミとともに即座に立ち上がって先手を打つ。そんな古事記に描かれた、積極果断な綏靖天皇の姿を偲び、お参りさせていただきました。
古事記紀行2014 > (2)橿原神宮 > 綏靖天皇陵

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