【公式】埼玉県立さきたま史跡の博物館(日本語版) - ぶっちゃけ古事記
金錯銘鉄剣(きんさくめいてっけん)を代表とする「武蔵埼玉稲荷山古墳出土品」が展示されている県立さきたま史跡の博物館(旧さきたま資料館)は2014年で開館45周年を迎えました。そこで同館は、Googleが提供するGoogleアートプロジェクトに参加、国宝「金錯銘鉄剣」やその他の出土品、埼玉古墳群をGoogleストリートビューで楽しめるようになりました。

県立さきたま史跡の博物館の展示物をストリートビュー
埼玉古墳群(丸墓山古墳手前の石田堤からスタート)をストリートビュー
動画 【公式】埼玉県立さきたま史跡の博物館(日本語版)

またその動画も日本語版と英語版を用意してYouTubeにアップされています。写真はその動画のキャプチャー(出典:YouTube)。

・「埼玉古墳群」に関する商品をアマゾンで探す

埼玉古墳群(さきたまこふんぐん)は、埼玉県行田市にある、9基の大型古墳からなる古墳群。5世紀末から7世紀にかけて成立したと考えられています。何の基盤もない当地に突如として、畿内に匹敵する中型前方後円墳が現れたことで、様々な推測や想像が百花繚乱。特にその稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣が注目です。

この国宝に指定されている剣の銘文は以下の通り。

(表)
辛亥年七月中記、乎獲居臣、上祖名意富比垝、其児多加利足尼、其児名弖已加利獲居、其児名多加披次獲居、其児名多沙鬼獲居、其児名半弖比
(裏)
其児名加差披余、其児名乎獲居臣、世々為杖刀人首、奉事来至今、獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時、吾左治天下、令作此百練利刀、記吾奉事根原也

祖先から遡って、父祖の名を連ねる形式は古事記などでもおなじみ。当時の習慣だったのでしょう。

「獲加多支鹵大王」が第二十一代雄略天皇との説が有力です。

さらに、「意富比垝」はオホヒコ、あるいはオオヒコ、オオビコ。同一人物であれば、古事記の英雄の一人と言ってもいい人です。

オオビコは、第八代孝元天皇の皇子で、第十代崇神天皇の頃、天皇の叔父として厚く信任され、権勢を振るったと考えられます。

崇神天皇が派遣した四道将軍(古事記では三道将軍)の一人で、越の国に赴いています。その途中、オオビコの異母兄弟にあたるタケハニヤスが反旗を翻したため、崇神天皇の命を受けたオオビコがタケハニヤスの反乱を鎮めます。

その後、予定通り越の国に行き、周辺地域を平定、同じく三道将軍として東国に派遣されていたオオビコの子・タケヌナカワワケと会津で合流を果たします。

当時としては東日本一帯を席巻した非常に大規模な遠征だったことが考えられ、稲荷山古墳からの出土品にその名残を示すかのように、剣や銘文が出ることも決して不思議な話ではありません。

孝元天皇は欠史八代の一人、当然その子も実在していない、という説が根強かったのですが、この銘文の存在で、オオビコが紛れもなく実在していたことが証明され、当然のことながら、その父がいるわけで、孝元天皇の実在も間接的ながら示されたということになります。そもそも実在が有力視されている崇神天皇の祖父、あるいは父祖はどこかにはいるはずなのですが。。

銘文のオオビコの子タカリノスクネの名は古事記にはありませんが、この銘文の主ヲワケの臣(辛亥=471年)、祖がオオビコ、仕えていたのが雄略天皇、その間七世代あまり。そう計算が合わないものでもないようです。大和から遠く離れた地域で、大和の歴史を補完するような銘文が出るというのも興味深い。

今回、現在の技術であるストリートビューと、こうした遺跡の融合という試み、大変面白いと思います。ただ、写真が主のため、見て終わり、という可能性もなくはなく、それがどういうものかなどの説明文、キャプチャーがあれば、より実感として遺跡や出土品を把握できるようになるかもしれません。

・「埼玉古墳群」に関する商品をアマゾンで探す

【関連記事】
金錯銘鉄剣(複製品) - 雄略天皇と、オオビコの名が記された、かも?の鉄剣