平城坂上陵(ならさかのえのみささぎ)、つまり第十六代仁徳天皇のイワノ様の陵墓から、日葉酢媛命陵、つまり第十一代垂仁天皇の後の皇后であるヒバスヒメの陵墓に向かいます。古事記に「狹木(さき)の寺間(てらま)の陵」とされた、狭木之寺間陵(さきのてらまのみささぎ)です。佐紀陵山古墳(奈良県・奈良市)。
ここはほぼ直線距離そのまま、20分ほどです。
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途中、山上八幡神社があったのでお参り。
山上八幡神社からすぐ近く、ここが狭木之寺間陵、ヒバスヒメの陵墓です。
イワノの陵墓が荒れている、という印象を持った後だったのでなおさら、こちらはきれいに整備されていました。
垂仁天皇が皇后サオビメをその実兄サオビコにNTRされ、サオビコを滅ぼすと同時にそれに殉じてしまった、愛するサオビメを失った後、皇后に立てられたのがこのヒバスヒメです。
ヒバスヒメの功績だったのでしょう、土師部(はにしべ)がこの時に定められています。葬送を生業とする集団で、相撲の起源である野見宿禰(同時に、殉死の禁止につながる埴輪の創設という伝説もある)の出身母体。この家系から、後にかの菅原道真が出てきます。
それはともかく、ヒバスヒメは比較的幸せだったのでしょうが、サオビメを亡くした後に、ヒバスヒメと一緒に垂仁天皇のもとに嫁に行った、ヒバスヒメの妹マトノが悲劇です。
マトノは垂仁天皇にブサイクと言われ、実家に帰されます。「姉妹と比べられたらワタシ、生きていけない」と、マトノはその途中、自殺を試みます。しかしそこでは幸か不幸か未遂に終わったものの、実家に帰る途中、結局は事故死してしまいます。
天孫ニニギにブサイクと言われやはり実家に帰されたイワナガの二番煎じ、と思われているのか、イワナガが比較的脚光を浴びることが多い中で、こちらのマトノ、あまり注目されていませんが、イワナガがニニギのもとを去った後、幸せな結婚をしたらしい、のと比べると、マトノ、全く救いがありません。こちらの方がより悲惨です。
ヒバスヒメの肉声は古事記からでは伝わってきませんが、実の妹であるマトノの悲劇に際して、やはり悲嘆したことでしょう。
さて、ヒバスヒメのお墓の隣にあるのが第十三代成務天皇の陵墓で、古事記に「沙紀之多他那美(たたなみ)」とある、狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)です。第十二代景行天皇の皇子で、ヤマトタケルの異母兄弟にあたります。やはりあまりにも事蹟が少ないので、非実在説がありますが。
まあ、子も残さなかったようで、皇位継承はヤマトタケルの子、第十四代仲哀天皇に移るのではありますが、何でもかんでも非実在とするのはいかがなものか。では、古事記、あるいは日本書紀編纂者は、そこまで嘘八百を並べていたのか(何の必要があって?)、ということになります。日本書紀には理由がありそうな嘘八百はよくありそうですが。
百歩譲って嘘八百だったとしても、ではそれを生み出した人は誰か。文章を書いてみればわかりますが、空想を描くのは大変な労力が必要です。古事記の内容を否定するのは極めて簡単で、誰にでもできるのですが。フィクションを創作するのはある意味天才です。本当に非実在であれば、それを創作した人の名が伝わらないのは残念無念。非実在を唱える人の名前は知らなくてもよいですが(誰でもできるので)。
ともかく、古事記に明記されていることですが、成務天皇の御世、一人の怪物政治家が世に出ます。建内宿禰その人です。ここでは建内宿禰の詳細には触れませんが、成務天皇が非実在であれば、建内宿禰はいつ大臣になったのでしょうか?
さて、建内宿禰の名前が出たところで、この人ゆかりの、最終目的地である神功皇后の陵墓に向かいます。直線距離で500メートルぐらいでしょうか。大した距離ではありません。県道176号をそのまま北上します。途中、近鉄橿原線の踏切を超えてすぐ八幡神社があったので、お参り。八幡神社が多いのは、神功皇后陵の近辺だからでしょうか。
八幡神社から北西側の道を取ると、古事記に「沙紀の盾列池上陵(さきのたたなみのいけがみのみささぎ)」とされる神功皇后陵、狹城楯列池上陵(さきたたなみいけのえのみささぎ)への入口がすぐです。
五社神古墳(奈良県・奈良市)と呼ばれる、佐紀盾列古墳群の北西端とされるこの古墳。さすが神功皇后陵、入り口から拝所まで綺麗に石畳が敷かれて整備してあり、他の皇后、あるいは天皇陵と比べても、手入れが行き渡っている感があります。戦前は極度に神聖化されたお方ですが、現在でもその影響はあるのかもしれません。
この神功皇后陵、先ほどの成務天皇陵と混同されていた時期があったそう。当時、怪異が起こり、改めて調査してみると、逆だった、と言います。こういう怪異がなければ、現在も動かないのでしょうか。
閑話休題。
神功皇后は、第十四代仲哀天皇の皇后で、第十五代応神天皇の母。建内宿禰などの功臣に支えられ、三韓征伐などを行った、とされています。古事記では応神天皇への溺愛ぶりも描かれており、古代日本最強のおっかさん、という感じ。
事蹟が少ないから非実在、という、欠史八代や成務天皇などがいる一方、逆に事蹟が多すぎるから神功皇后の実在を疑う、という向きもあるようです。そのスタンスの曖昧さの方を逆に省みるべきだと思いますが、もちろん神功皇后の事績とされるものすべてが現実にあったものと考えるのは無理があるかもしれません。ただしそれをもって神功皇后そのものを非実在とするのも乱暴。
古事記は、決してフィクション、ファンタジーではなく、現実にあったことを忠実に書き出しているのではないか、少なくとも大幅な空想をもって話を捻じ曲げているのではない、というのが今回の旅でも実感できたところです。
現代人としては、より素直な目をもって古事記に目を通す必要性があると、再確認した旅でした。
神功皇后陵から近鉄の平城駅まで戻り、一旦大和西大寺駅まで行き、そこから京都行の特急に乗り、今回の旅を終えました。 古事記紀行2014 > (12)神功皇后陵 - 山上八幡神社 | ヒバスヒメ陵 | 成務天皇陵 | 山陵八幡神社 | 神功皇后陵
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・成務天皇陵 - なぜ架空? 既存資料だけでもこれだけ人物が見えてくるのに
・ヒバスヒメ陵 - 埴輪伝説は垂仁天皇との愛の賜物? 緑と青が美しく映える古墳
・山上八幡神社 - ヒバスヒメ陵に参拝する形で隣接する、豊臣秀吉ゆかりの神社
ここはほぼ直線距離そのまま、20分ほどです。
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途中、山上八幡神社があったのでお参り。
山上八幡神社からすぐ近く、ここが狭木之寺間陵、ヒバスヒメの陵墓です。
イワノの陵墓が荒れている、という印象を持った後だったのでなおさら、こちらはきれいに整備されていました。
垂仁天皇が皇后サオビメをその実兄サオビコにNTRされ、サオビコを滅ぼすと同時にそれに殉じてしまった、愛するサオビメを失った後、皇后に立てられたのがこのヒバスヒメです。
ヒバスヒメの功績だったのでしょう、土師部(はにしべ)がこの時に定められています。葬送を生業とする集団で、相撲の起源である野見宿禰(同時に、殉死の禁止につながる埴輪の創設という伝説もある)の出身母体。この家系から、後にかの菅原道真が出てきます。
それはともかく、ヒバスヒメは比較的幸せだったのでしょうが、サオビメを亡くした後に、ヒバスヒメと一緒に垂仁天皇のもとに嫁に行った、ヒバスヒメの妹マトノが悲劇です。
マトノは垂仁天皇にブサイクと言われ、実家に帰されます。「姉妹と比べられたらワタシ、生きていけない」と、マトノはその途中、自殺を試みます。しかしそこでは幸か不幸か未遂に終わったものの、実家に帰る途中、結局は事故死してしまいます。
天孫ニニギにブサイクと言われやはり実家に帰されたイワナガの二番煎じ、と思われているのか、イワナガが比較的脚光を浴びることが多い中で、こちらのマトノ、あまり注目されていませんが、イワナガがニニギのもとを去った後、幸せな結婚をしたらしい、のと比べると、マトノ、全く救いがありません。こちらの方がより悲惨です。
ヒバスヒメの肉声は古事記からでは伝わってきませんが、実の妹であるマトノの悲劇に際して、やはり悲嘆したことでしょう。
さて、ヒバスヒメのお墓の隣にあるのが第十三代成務天皇の陵墓で、古事記に「沙紀之多他那美(たたなみ)」とある、狹城盾列池後陵(さきのたたなみのいけじりのみささぎ)。佐紀石塚山古墳(奈良県・奈良市)です。第十二代景行天皇の皇子で、ヤマトタケルの異母兄弟にあたります。やはりあまりにも事蹟が少ないので、非実在説がありますが。
まあ、子も残さなかったようで、皇位継承はヤマトタケルの子、第十四代仲哀天皇に移るのではありますが、何でもかんでも非実在とするのはいかがなものか。では、古事記、あるいは日本書紀編纂者は、そこまで嘘八百を並べていたのか(何の必要があって?)、ということになります。日本書紀には理由がありそうな嘘八百はよくありそうですが。
百歩譲って嘘八百だったとしても、ではそれを生み出した人は誰か。文章を書いてみればわかりますが、空想を描くのは大変な労力が必要です。古事記の内容を否定するのは極めて簡単で、誰にでもできるのですが。フィクションを創作するのはある意味天才です。本当に非実在であれば、それを創作した人の名が伝わらないのは残念無念。非実在を唱える人の名前は知らなくてもよいですが(誰でもできるので)。
ともかく、古事記に明記されていることですが、成務天皇の御世、一人の怪物政治家が世に出ます。建内宿禰その人です。ここでは建内宿禰の詳細には触れませんが、成務天皇が非実在であれば、建内宿禰はいつ大臣になったのでしょうか?
さて、建内宿禰の名前が出たところで、この人ゆかりの、最終目的地である神功皇后の陵墓に向かいます。直線距離で500メートルぐらいでしょうか。大した距離ではありません。県道176号をそのまま北上します。途中、近鉄橿原線の踏切を超えてすぐ八幡神社があったので、お参り。八幡神社が多いのは、神功皇后陵の近辺だからでしょうか。
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五社神古墳(奈良県・奈良市)と呼ばれる、佐紀盾列古墳群の北西端とされるこの古墳。さすが神功皇后陵、入り口から拝所まで綺麗に石畳が敷かれて整備してあり、他の皇后、あるいは天皇陵と比べても、手入れが行き渡っている感があります。戦前は極度に神聖化されたお方ですが、現在でもその影響はあるのかもしれません。
この神功皇后陵、先ほどの成務天皇陵と混同されていた時期があったそう。当時、怪異が起こり、改めて調査してみると、逆だった、と言います。こういう怪異がなければ、現在も動かないのでしょうか。
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事蹟が少ないから非実在、という、欠史八代や成務天皇などがいる一方、逆に事蹟が多すぎるから神功皇后の実在を疑う、という向きもあるようです。そのスタンスの曖昧さの方を逆に省みるべきだと思いますが、もちろん神功皇后の事績とされるものすべてが現実にあったものと考えるのは無理があるかもしれません。ただしそれをもって神功皇后そのものを非実在とするのも乱暴。
古事記は、決してフィクション、ファンタジーではなく、現実にあったことを忠実に書き出しているのではないか、少なくとも大幅な空想をもって話を捻じ曲げているのではない、というのが今回の旅でも実感できたところです。
現代人としては、より素直な目をもって古事記に目を通す必要性があると、再確認した旅でした。
神功皇后陵から近鉄の平城駅まで戻り、一旦大和西大寺駅まで行き、そこから京都行の特急に乗り、今回の旅を終えました。 古事記紀行2014 > (12)神功皇后陵 - 山上八幡神社 | ヒバスヒメ陵 | 成務天皇陵 | 山陵八幡神社 | 神功皇后陵
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