狭岡神社と大山守命墓の間にある、奈良教育大学付属中学の脇にあった大山守命墓の石碑
第十一代垂仁天皇の皇后サオビメゆかり、伝承地の狭岡神社を後にし、ここからは徒歩です。メーンは佐紀盾列古墳群、最終目的地はその際北西端にあるとされる神功皇后陵。地図をさっと見たところでは、歩けない距離ではないはず。

まずは大山守命の墓「那羅山墓」(奈良県・奈良市)。ここは狭岡神社から本当に歩いて五分ほどのところ。

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大山守命(おおやまもりのみこと)、おそらく一般の方にはまったく馴染みがないのではないでしょうか。第十五代応神天皇の皇子であり、第十六代仁徳天皇の兄で、応神―仁徳という継承が行われる中で、極めて重要な役割を担った皇子です。
大山守命墓拝所への入口 - ぶっちゃけ古事記
古事記での大山守命の初登場は、応神天皇が初めて自己主張する場面。その前までは、明らかにおっかさん神功皇后がガンガン前面に出ていた感じなので。

応神天皇は美女ヤカワエをゲットして妃の一人とし、子宝にも恵まれます。その一人が和紀郎子(わかきいらつこ)。

応神天皇が、おそらくは有力な皇子だった大山守命と大雀命(後の仁徳天皇)に、子の長幼での可愛さについての問答を行います。大山守命は自分が有力皇子の中では一番年上なのを意識して「兄が可愛い」と答え、一方の大雀命は応神天皇の御心を読んで「弟が可愛い」と答えました。

応神天皇が、大雀命が正しい、と判断し、二人の皇子にとってはかなり年の離れた異母弟だったはずの和紀郎子を皇太子とする旨を宣言します。愛妃ヤカワエとの子を、皇后との子である大雀命らを差し置いてでも皇位に就けたい、応神天皇の親バカ的なところが見えます。

ともかく、問答の内容によって、大雀命は重んじられ、大山守命は遠ざけられたようです。
大山守命墓拝所への参道から墓を望む - ぶっちゃけ古事記
大山守命、もちろん納得いきません。応神天皇崩御後、すぐに反逆を企てます。これを察知した大雀命は、皇太子・和紀郎子にご注進。「大山守命が反逆するみたいよ」と。

ここで、和紀郎子と大山守命の戦いになりますが、よく言えば和紀郎子の作戦勝ち、悪く言えば和紀郎子の騙し討ちで、大山守命は宇治川で溺れ、そこに矢を射かけられ、死にます。心優しい和紀郎子は、大山守命の溺れている際の命乞いこそ無視しましたが、その遺骸は川から引き揚げ、「那良山」に丁重に葬った、と古事記にあります。

それがこの大山守命墓ということになります。
大山守命墓の拝所 - ぶっちゃけ古事記
和紀郎子と大山守命の戦いでは、密告はしたものの、表には出てこなかった大雀命。後に和紀郎子と皇位を譲り合いますが、和紀郎子が早逝したこともあり、大雀命が即位します。仁徳天皇です。

応神―仁徳という、古代日本の最も強大な権力を有したと思われる二人の天皇。その継承にも、こんなドラマがあるという、非常に興味深い説話です。
大山守命墓の拝所、宮内庁看板と墓本体 - ぶっちゃけ古事記
単純に読んでしまえば、大山守命はただのピエロかもしれませんが、ものすごく著名な皇子という訳でもないのに、今に至るまでその陵墓が明らかになっており、守られていることも含めて考えれば、この話には何か裏側に別のお話があった、と考えることもできるのかもしれません。
古事記紀行2014 > (10)大山守命墓 - 那羅山墓

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