板蓋宮(いたぶきのみや) - Wikipedia
奈良県明日香村の国史跡・名勝「飛鳥京跡苑池(えんち)」(7世紀)で、「取ったら災いが起きる」という内容の警告文が刻まれた珍しい土器が見つかった件で、2014年10月11日から奈良県立橿原考古学研究所付属博物館(同県橿原市)で始まる特別展で一般公開されるようです。毎日新聞が報じています。写真は板蓋宮(出典:Wikipedia)。

飛鳥京跡苑池は、「伝飛鳥板蓋宮跡」の北西に隣接した庭園遺構であり、1999年(平成10年)の発掘調査で確認されたものです。藤原京以前に宮都に付随した苑池が営まれていたことがうかがわれる重要な遺構です。

伝飛鳥板蓋宮跡は、古事記に関係したことでいえば、第三十四代舒明天皇が都をおいたとされる岡本宮にそうとうします。舒明天皇は古事記に最後に登場する天皇であり、完全に古事記終盤の、天皇家の系譜を伝えるだけの記事だけに登場する天皇です。

それも含めて、伝飛鳥板蓋宮跡は、I期が飛鳥岡本宮(630-636年←舒明天皇の頃)、II期が飛鳥板蓋宮(643 - 645、655年)、III期が後飛鳥岡本宮(656 - 660年)、飛鳥浄御原宮(672 - 694年)と連なります。

古事記でも明らかなように、都は天皇一代に対して、都も一つの時代が長く続きましたが、このあたりから、複数代の天皇が同じ都を使い続ける風習が出てきます。後の平城京、平安京に連なる重要な節目となります。

さて、今回発見され公開される土器は7世紀末のものとされるので、それが事実であれば、古事記の世界はすでに終了していることになります。ただ、時代は近く、ほぼほぼ同時代と言ってもよいでしょうか。少なくとも古事記編纂時期にはクロスしているかと。

「川原寺坏莫取若取事有者**相而和豆良皮牟毛乃叙又毋言久皮野*」(*の箇所は判読不能)などと漢字と万葉仮名で刻まれているようです。

読み下すと、「川原寺の坏、取ること莫(なか)れ、若(も)し取る事有らば、**相す、而して和豆良皮牟毛乃(煩(わづら)ひむもの)、叙して又(ま)た久しき皮野*(ひや*)を言ふこと毋(な)し」となるようで、これをマスメディアでは“「取ったら災い」警告文付き土器”と表現している、ということのようです。

どのような事情で刻まれたものなのか、フシギではありますが、もしマスメディアが表現するような訳で正解であれば、非常に興味深いものがあります。

まず非常に現代的である、ということ。古代と言えば、神々と怖々共存し、神々を極端に敬し恐れ戦いている時代、と思われがちですが、天皇家、あるいは川原寺という重要な寺院(宗教的施設)のものを、かすめ取ろうとしている輩がいた、あるいはいたと思われていた、ということが、よく分かります。

神聖不可侵、でもなんでもなく、それももちろんなくはなかったでしょうが、それはあくまでも建前として、結局人間の欲は今も昔もキリがない、ということでしょうか。

古事記を読んでいると、神々は神聖不可侵なものではなく、むしろ仲良く、時には喧嘩もしますが、敬して遠ざけず、色々な意味でうまく共存していた存在、という宗教観を感じずにはおれません。それがもしかすると、日本の、日本人の神々との付き合い方の根本なのか、と思わせる面も多々あります。

ご存知のように、古事記の時代から1300年、今は別としても、100-200年ほど前までは歴代天皇の陵墓さえぞんざいに扱われてきた、というのは事実。

であるとすれば、この警告文付き土器ほど、当時のそうした雰囲気を伝えるものはないかもしれません。当時からフランクだったよ、と。

ぶっちゃけ古事記を銘打っているからこその脱線かもしれませんが、非常に興味深く、今回の発見と公開を見守りたいと思います。