奈良市西大寺赤田町で、6世紀末から7世紀初めの横穴式石室が、奈良市埋蔵文化財調査センターの調査で見つかったといいます。赤田横穴墓群(6世紀後半-7世紀中ごろ)と同じ丘陵にあり、同様の陶棺(素焼きの棺)が納められていたようです。横穴式石室と陶棺の組み合わせは珍しく、集団内で被葬者の階層差を示す可能性があるといいます。「赤田1号墳」と命名された。奈良新聞が報じています。
赤田横穴墓群(あこだおうけつぼぐん)は、土師氏の墓所と推定されているところです。ここで新たな横穴式石室が見つかった、とのこと。
土師氏に関して、古事記ではあまり詳細には伝えられておらず、第十一代垂仁天皇の皇后であるヒバスヒメの時、「垂仁天皇は石棺作りを定め、また土師部(はにしべ)を定める」とある程度です。
一般に相撲の起源で知られる野見宿禰を祖とし、埴輪制作や葬送に携わった一族とされ、この一族から菅原氏などが出て、平安時代の菅原道真などを輩出することになります。
赤田横穴墓群は、葬送儀礼を司る土師氏自身の一族の墓であり、周囲には埴輪の破片も見つかっているとのこと。技術者集団としての、技術力の誇示・宣伝もあったのかもしれません。
以前の調査に関する報告書はこちら(PDF)から。
また、こちらにも詳しい情報が記載されています。
赤田横穴墓群(あこだおうけつぼぐん)は、土師氏の墓所と推定されているところです。ここで新たな横穴式石室が見つかった、とのこと。
土師氏に関して、古事記ではあまり詳細には伝えられておらず、第十一代垂仁天皇の皇后であるヒバスヒメの時、「垂仁天皇は石棺作りを定め、また土師部(はにしべ)を定める」とある程度です。
一般に相撲の起源で知られる野見宿禰を祖とし、埴輪制作や葬送に携わった一族とされ、この一族から菅原氏などが出て、平安時代の菅原道真などを輩出することになります。
赤田横穴墓群は、葬送儀礼を司る土師氏自身の一族の墓であり、周囲には埴輪の破片も見つかっているとのこと。技術者集団としての、技術力の誇示・宣伝もあったのかもしれません。
以前の調査に関する報告書はこちら(PDF)から。
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