さて、ホトに始まり、ホトに終わった天岩戸隠れ、ではありますが、先のものは全体のフレームワーク。その傍証としてもう一つ挙げます。
しっかし、女陰だけで、十分古事記が語れます。
天津麻羅(あまつまら=アマツマラ)という神です。
アメノウズメによるストリップの前に、アマテラスに天岩戸を何とか開けさせようと、諸々の準備を進める八百万の神の中で、重要な役割を演じる神です。
しかし、通常、神の場合、「命」「神」などが神名に付くものですが、この神は付いていません。これにも意味はあると思います。
鍛人アマツマラ
アマツマラは何をやったかというと、
取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅、科伊斯許理度賣命、令作鏡
つまり、天の安河の石(岩)と、天の金山(鉱山)の鉄を取って来て、鍛人(かぬち、つまり鍛冶師)のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて、鏡を作らせた。
ということになります。
先のようにひねくり回してタタラと結び付けなくとも、天岩戸隠れだけでも、直截的に「鉄」「鍛冶」、つまりタタラを連想させるものが登場してくるわけです。
ただし、以上のことは一連の流れの中で、高天原の知恵袋オモイカネが「そうだ、ストリップをしよう」と言うと同時に、下記の準備を進めた中の一環であり、では、これをもって、やはり天岩戸隠れ騒動にはタタラの事情が巧妙に隠されている、とは言えない面はあります。
・常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
・イシコリドメに命じて、アマツマラを通じて、鏡を作らせた。
・タマノオヤに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作らせた。
・アメノコヤネとフトダマに、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。
・賢木の枝に八尺瓊勾玉と鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。
・アメノコヤネが祝詞を唱え、アメノタヂカラオが岩戸の脇に隠れて立った。
片目片足はタタラの職業病
アマツマラは古事記において、この部分しか出てきません。しかし、高天原が鍛冶師あるいは鍛冶集団を抱えていたこと(当然、ではありますが)を示すものとしては興味深いものがあります。一方で、「命」「神」が付いていないことから、そう言った鍛冶集団の実際の従事者が一段低く見られていた、という可能性もありそうです。
ホトとの関連で、アマツマラに「マラ」が付いているから男根を象徴する、という訳ではありません。それも無い訳ではないと思いますが、「マラ」が男根を象徴するようになったのは後世のことだそうです。しかし、それでもアマツマラは男根をも象徴している可能性はあります。
そもそも女陰=ホトが火処であり、タタラの炉を指しているのであれば、それだけではおさまりが悪い。対となるべき男根も、タタラとどこかで関係していてしかるべき。
アマツマラは、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一視されます。古事記には載っていない、やはり鍛冶・タタラの神です。
名前の通り、一つ目の神でしょう。タタラの竈の火を何日も不眠不休で、片目で見続けた結果、片方の目を故障してしまう、タタラ人にとっての職業病をシンボライズしているものと思われます。
また、もう一つの職業病として知られているのが、竈に火を送る鞴を片足で踏み続けるため、片足が故障してしまうこと。足が一本、あるいは足を引きずる状態も、タタラ人の特徴として象徴化されています。
しかし、現実的には作業は分担されていたはずで、片目片足を双方故障してしまう人はほとんどいなかったと思われますが、あくまでも象徴。
一つ目小僧、からかさ小僧などの伝承や妖怪も、実際に過去に存在したタタラ人たちを極端に象徴化したもの、とも言われています。
ホトとマラの暗喩で見るタタラ
それが前提。さらに考えてみると、
「鞴から火処(ホト)に風を送り、鎔化を助ける羽口が男根に似ている。男根は穴を有する茎であり、その小さな穴が一つ目と解されたのだろう」
となり、例えば、からかさ小僧の傘は通常ボロボロですが、その雨漏りしている様子が、男根から滴り落ちる精子を現しているのではないか、とも言われたりします。濡れるのはホトだけでなく、男根もです。お忘れなく。
一つ目で火の按配を見続け、片足で鞴を踏み続け、一つ目の滴った男根で竈に「精」を良い火加減の(濡れた)火処(女陰)に送り込み、そうして、鉄という宝を産む、というのがタタラの暗喩なのかもしれません。
当時のタタラの重要性を考えれば、人の営みにおいて、最も大切な男女和合に擬せられ、そして、今に断片的とはいえ伝えられている、というのはあり得る話だと思います。
そのため、アマツマラの「マラ」が後世、容易に男根に結び付いた、とは言えるかもしれません。
鉄という宝を産みながら、身分の低さや、後世妖怪変化に混同される(神々の零落、とも)など、決して恵まれた境遇とは言えそうもないタタラ人。彼らの働きがなければ、国造りも国の発展もなかったはずなのですが。こんなところからも、日本の差別の根強さを感じさせます。
差別といえば、めっかち(目っかち、眼っかち)。現在、放送禁止用語になっているようです。これはもともと、「めかぬち」、つまり目(め)+鍛人(かぬち)が変遷してできた言葉のようです。
つまりこれは立派なタタラ用語だということになります。片目のタタラ人。そうした意味では、片足の不自由な状態「びっこ」も同じかもしれません。
使用禁止にすることを否定はしませんが、こうした背景を知識として喪失していくことは、日本人にとって大きな損失になりえます。まただからこそいつまでたっても差別がなくなりません。禁止と語り継ぐこと、そこはうまく調整されるべきなのでしょう。
天岩戸隠れに戻ってみれば
天岩戸隠れとはだいぶ離れてしまいましたが、気を取り直して。
イシコリドメ(という「命」が付く正真正銘の神)によって指導された、(「神」「命」が付されていないことから身分差別を受けていた可能性のある)アマツマラという鍛冶師、あるいは鍛冶集団、つまりタタラ人が一生懸命に鏡を作った。
これが後世の八咫鏡であり、ご存じ、伊勢の神宮の内宮の御神体。それほど重要なものをアマツマラは創造したことになります。それはともかく、これが、アマテラスが天岩戸の外をチラ見した時に、アメノウズメが「あなた様より尊い神が現れたので」と言って、アマテラスに向けられた鏡になるわけです。
今にして思えば、アメノウズメの言葉を咀嚼すると、先のイザナミではないですが、アマテラスももしかするとタタラの象徴だったのかもしれません。タタラの破壊と再生を、アマテラスが身を隠すことと、アメノウズメが女陰露わに踊り狂った後新しく鋳造した鏡でアマテラスを映し出すこと、これらに仮託した。。
このあたりはもう少し考えてみなければなりませんが、天岩戸がアマテラスという女神の死と、再生としての、別の高貴な女神の誕生を描写したものともされる場合もあり、そうした中で、そうした見解ともタタラ説は矛盾なく補完し合うことができそうです。
タタラ伝説の天岩戸隠れの正体は?
以上、ホトに始まり、ホトに終わった天岩戸隠れは、タタラとの兼ね合いをさらに深く考えれば、アマツマラという“男根”をも包括しながら、結局、ホトに始まり、マラを経由し、ホトに終わったタタラ伝説の天岩戸隠れ、といえるのかもしれません。
そう考えると、非常に直截的な下ネタ。
神話はシモの塊という面は確かにあります。今も昔も、老若男女、シモは理解しやすいからでしょうし、むかしは今のようなタブーがあまりなかったからかもしれません。
すべてをオープンにした方が真実が伝えやすく、見えやすい。何事も禁止していたら何もわからなくなる。前述の差別用語にも相通じるもの、それがシモ、なのかもしれません。
古事記を考える時、現代的なシモの考え方で臨んでは、見えるものも見えなくなってしまいます。自然体で読み解いていくのが正解でしょう。
そういう意味では、女陰と比べて、男根、あるいはそれを思わす記述が古事記では極めて少ないことに気づきます。女陰は良くて、男根はあまり記さない。それはなぜなのか。現代的な考え方ではやはりわかりません。
備考:
このタタラ周りの説につき、高田崇文氏の小説「QED」シリーズ、特に本稿では「毒草師」を参考にさせていただいております。
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しっかし、女陰だけで、十分古事記が語れます。
天津麻羅(あまつまら=アマツマラ)という神です。
アメノウズメによるストリップの前に、アマテラスに天岩戸を何とか開けさせようと、諸々の準備を進める八百万の神の中で、重要な役割を演じる神です。
しかし、通常、神の場合、「命」「神」などが神名に付くものですが、この神は付いていません。これにも意味はあると思います。
鍛人アマツマラ
アマツマラは何をやったかというと、
取天安河之河上之天堅石、取天金山之鐵而、求鍛人天津麻羅、科伊斯許理度賣命、令作鏡
つまり、天の安河の石(岩)と、天の金山(鉱山)の鉄を取って来て、鍛人(かぬち、つまり鍛冶師)のアマツマラを探し、イシコリドメに命じて、鏡を作らせた。
ということになります。
先のようにひねくり回してタタラと結び付けなくとも、天岩戸隠れだけでも、直截的に「鉄」「鍛冶」、つまりタタラを連想させるものが登場してくるわけです。
ただし、以上のことは一連の流れの中で、高天原の知恵袋オモイカネが「そうだ、ストリップをしよう」と言うと同時に、下記の準備を進めた中の一環であり、では、これをもって、やはり天岩戸隠れ騒動にはタタラの事情が巧妙に隠されている、とは言えない面はあります。
・常世の長鳴鳥(鶏)を集めて鳴かせた。
・イシコリドメに命じて、アマツマラを通じて、鏡を作らせた。
・タマノオヤに八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)を作らせた。
・アメノコヤネとフトダマに、雄鹿の肩の骨とははかの木で占い(太占)をさせた。
・賢木の枝に八尺瓊勾玉と鏡と布帛をかけ、フトダマが御幣として奉げ持った。
・アメノコヤネが祝詞を唱え、アメノタヂカラオが岩戸の脇に隠れて立った。
片目片足はタタラの職業病
アマツマラは古事記において、この部分しか出てきません。しかし、高天原が鍛冶師あるいは鍛冶集団を抱えていたこと(当然、ではありますが)を示すものとしては興味深いものがあります。一方で、「命」「神」が付いていないことから、そう言った鍛冶集団の実際の従事者が一段低く見られていた、という可能性もありそうです。
ホトとの関連で、アマツマラに「マラ」が付いているから男根を象徴する、という訳ではありません。それも無い訳ではないと思いますが、「マラ」が男根を象徴するようになったのは後世のことだそうです。しかし、それでもアマツマラは男根をも象徴している可能性はあります。
そもそも女陰=ホトが火処であり、タタラの炉を指しているのであれば、それだけではおさまりが悪い。対となるべき男根も、タタラとどこかで関係していてしかるべき。
アマツマラは、天目一箇神(あめのまひとつのかみ)と同一視されます。古事記には載っていない、やはり鍛冶・タタラの神です。
名前の通り、一つ目の神でしょう。タタラの竈の火を何日も不眠不休で、片目で見続けた結果、片方の目を故障してしまう、タタラ人にとっての職業病をシンボライズしているものと思われます。
また、もう一つの職業病として知られているのが、竈に火を送る鞴を片足で踏み続けるため、片足が故障してしまうこと。足が一本、あるいは足を引きずる状態も、タタラ人の特徴として象徴化されています。
しかし、現実的には作業は分担されていたはずで、片目片足を双方故障してしまう人はほとんどいなかったと思われますが、あくまでも象徴。
一つ目小僧、からかさ小僧などの伝承や妖怪も、実際に過去に存在したタタラ人たちを極端に象徴化したもの、とも言われています。
ホトとマラの暗喩で見るタタラ
それが前提。さらに考えてみると、
「鞴から火処(ホト)に風を送り、鎔化を助ける羽口が男根に似ている。男根は穴を有する茎であり、その小さな穴が一つ目と解されたのだろう」
となり、例えば、からかさ小僧の傘は通常ボロボロですが、その雨漏りしている様子が、男根から滴り落ちる精子を現しているのではないか、とも言われたりします。濡れるのはホトだけでなく、男根もです。お忘れなく。
一つ目で火の按配を見続け、片足で鞴を踏み続け、一つ目の滴った男根で竈に「精」を良い火加減の(濡れた)火処(女陰)に送り込み、そうして、鉄という宝を産む、というのがタタラの暗喩なのかもしれません。
当時のタタラの重要性を考えれば、人の営みにおいて、最も大切な男女和合に擬せられ、そして、今に断片的とはいえ伝えられている、というのはあり得る話だと思います。
そのため、アマツマラの「マラ」が後世、容易に男根に結び付いた、とは言えるかもしれません。
鉄という宝を産みながら、身分の低さや、後世妖怪変化に混同される(神々の零落、とも)など、決して恵まれた境遇とは言えそうもないタタラ人。彼らの働きがなければ、国造りも国の発展もなかったはずなのですが。こんなところからも、日本の差別の根強さを感じさせます。
差別といえば、めっかち(目っかち、眼っかち)。現在、放送禁止用語になっているようです。これはもともと、「めかぬち」、つまり目(め)+鍛人(かぬち)が変遷してできた言葉のようです。
つまりこれは立派なタタラ用語だということになります。片目のタタラ人。そうした意味では、片足の不自由な状態「びっこ」も同じかもしれません。
使用禁止にすることを否定はしませんが、こうした背景を知識として喪失していくことは、日本人にとって大きな損失になりえます。まただからこそいつまでたっても差別がなくなりません。禁止と語り継ぐこと、そこはうまく調整されるべきなのでしょう。
天岩戸隠れに戻ってみれば
天岩戸隠れとはだいぶ離れてしまいましたが、気を取り直して。
イシコリドメ(という「命」が付く正真正銘の神)によって指導された、(「神」「命」が付されていないことから身分差別を受けていた可能性のある)アマツマラという鍛冶師、あるいは鍛冶集団、つまりタタラ人が一生懸命に鏡を作った。
これが後世の八咫鏡であり、ご存じ、伊勢の神宮の内宮の御神体。それほど重要なものをアマツマラは創造したことになります。それはともかく、これが、アマテラスが天岩戸の外をチラ見した時に、アメノウズメが「あなた様より尊い神が現れたので」と言って、アマテラスに向けられた鏡になるわけです。
今にして思えば、アメノウズメの言葉を咀嚼すると、先のイザナミではないですが、アマテラスももしかするとタタラの象徴だったのかもしれません。タタラの破壊と再生を、アマテラスが身を隠すことと、アメノウズメが女陰露わに踊り狂った後新しく鋳造した鏡でアマテラスを映し出すこと、これらに仮託した。。
このあたりはもう少し考えてみなければなりませんが、天岩戸がアマテラスという女神の死と、再生としての、別の高貴な女神の誕生を描写したものともされる場合もあり、そうした中で、そうした見解ともタタラ説は矛盾なく補完し合うことができそうです。
タタラ伝説の天岩戸隠れの正体は?
以上、ホトに始まり、ホトに終わった天岩戸隠れは、タタラとの兼ね合いをさらに深く考えれば、アマツマラという“男根”をも包括しながら、結局、ホトに始まり、マラを経由し、ホトに終わったタタラ伝説の天岩戸隠れ、といえるのかもしれません。
そう考えると、非常に直截的な下ネタ。
神話はシモの塊という面は確かにあります。今も昔も、老若男女、シモは理解しやすいからでしょうし、むかしは今のようなタブーがあまりなかったからかもしれません。
すべてをオープンにした方が真実が伝えやすく、見えやすい。何事も禁止していたら何もわからなくなる。前述の差別用語にも相通じるもの、それがシモ、なのかもしれません。
古事記を考える時、現代的なシモの考え方で臨んでは、見えるものも見えなくなってしまいます。自然体で読み解いていくのが正解でしょう。
そういう意味では、女陰と比べて、男根、あるいはそれを思わす記述が古事記では極めて少ないことに気づきます。女陰は良くて、男根はあまり記さない。それはなぜなのか。現代的な考え方ではやはりわかりません。
備考:
このタタラ周りの説につき、高田崇文氏の小説「QED」シリーズ、特に本稿では「毒草師」を参考にさせていただいております。
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