明日香村教委などの調査で、極めて珍しい階段状墳丘を持つ方墳と分かった、都塚古墳(みやこづかこふん)。奈良のピラミッドの異名を持つ珍しい形状に話題沸騰、2014年8月16日に開催された村教委などによる現地説明会には3000人近くが詰めかけたと言います。
被葬者としては蘇我氏が有力で、その中で蘇我氏全盛期の礎を築いた蘇我稲目が有力視されています。古事記にも登場する人物(ソガノイナメ)です。
しかし、古事記において、蘇我稲目(と思われる人物)は皇室の系譜の記述において、名前のみ登場するにとどまります。
ただし、その祖先は古事記においても遡れますし、今回墳丘の形としてよく指摘されている渡来文化の影響も含めて、その当たりをまとめたいと思います。
蘇我氏はまず何よりも物部氏との崇仏・排仏の論争、及び合戦が有名です。渡来の仏教を全面に押し立てた蘇我氏がこの争いを制することになりますが、その意味で、蘇我氏が渡来のものとの結びつきの強さはすでに証明されていると言えます。
蘇我稲目を古事記において遡れば、建内宿禰(武内宿禰、竹内宿禰などとも)にたどり着きます。建内宿禰は第八代孝元天皇の孫にあたる皇族で、古事記においても、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇までの御世にかけて登場する、重要人物の一人です。
建内宿禰の子は古事記において男七人、女二人が記述されていますが、男子の中の一人、蘇賀石河が蘇我氏の直接の祖先となり、蘇我稲目に続いていきます(途中の、この系譜は古事記において、記述なし。つまり蘇我稲目の父である高麗(こま)は登場せず。またその子の馬子(うまこ)も出てこない)。
建内宿禰が初めて半島と関わり合うのは、神功皇后の三韓征伐です。三韓征伐、といっても、古事記においては、新羅と百済のみの記述であり(古事記において、高句麗は出てこない)、その前に海を渡るかどうかの神懸りの神事において、象徴的に登場してきます。
神功皇后の夫である第十四代仲哀天皇の不可解な急死もありながら、古事記を素直に読めば、神功皇后とともに三韓征伐事業を進めた建内宿禰。神功皇后の御子・第十五代応神天皇の頃になると、半島との交流に関してかなりの紙面が割かれています。いわば、建内宿禰はその立役者の一人とも言えます。
古事記において、神功皇后の母方の祖先は、新羅の王子・天日矛まで遡れます。父方は第九代開化天皇から連なる家系です。これらの神功皇后の系譜はすべてたどれるぐらい詳細に記述されています。なぜ神功皇后の系譜がここまで明らかなのか、それはそれでまた別の疑問ですが、とにかく、素直に考えれば、応神天皇もわずかにですが半島の血が流れている、ということが、古事記からでも明らかです。
また、応神天皇の父は、公式には仲哀天皇とされていますが、神功皇后の不可解な行動などによって、不倫の子としての建内宿禰の可能性もあります。
ただでさえ、応神天皇は半島の血を受け継いでいる。また、古事記において、複数の半島に関わる説話が掲載されている天皇でもあります。もしその父が建内宿禰であるならば、建内宿禰にも濃厚な半島性質があったことがうかがえます。
建内宿禰はある意味では怪物であり、古事記において、普通の天皇よりもその系譜が詳細に記述されています。応神天皇―仁徳天皇の頃、あるいはそれ以前から、恐らく大きな権勢を誇ったと思われる、いわゆる葛城氏の祖でもあるなど、色々な側面を持っている人であり、その一つの側面である半島とのかかわりが、この蘇賀石河に受け継がれ、子孫の蘇我稲目もその性質を保持した、とも考えられます。
ちなみに、蘇我稲目の妻は葛城氏の出身という指摘もありますが、葛城氏出身の女性を娶らなければならないほど、当時は葛城氏の権勢が大きかったことを物語っていると言えます。それはすなわち、建内宿禰の影響力がいかに大きく、後世まで及んでいたかを示すものでもあります。
また、建内宿禰の孫で、それこそ葛城の姫である仁徳天皇の皇后イワノが、仁徳天皇の浮気に激怒して、家出した時に身を寄せたのが、山城の筒木に住む百済系渡来人・奴理能美(ぬりのみ)の邸。これは本当に唐突に登場する人物なのですが、ここにも、建内宿禰―葛城―百済(半島)という関係が見て取れます。
古事記で、応神天皇の頃の半島との交流を描いた部分において、建内宿禰は渡来してきた新羅の人々を率いて、堤の池に渡って、百済池を造成したと言われています。新羅の人を動員して、なぜ百済池なのか、というのはよく分かりませんが。それでも建内宿禰と半島とのつながりを十二分に示すもの、と言えます。
また、応神天皇の頃、百済の国王・照古王が、馬の雄雌各一頭を阿知吉師に献上させ、横刀(たち)や大鏡も献上。また応神天皇が「もし賢いヤツがいれば寄こせや」と命じたので、和邇吉師に論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を持たせて献上させています。同じく鍛冶技術のある卓素、機織り技術のある西素の二人が献上されています。
酒造の名人、須須許里が日本に渡って来たのもこの時。応神天皇がその美酒を味わい、存分に酔っ払ったことが古事記に描かれています。
史実として、応神天皇が新王朝の始祖という指摘が根強いですが、それは半島勢力との密接なつながりによる、権力及びそれを支える財政の大幅な拡張があったからなのかもしれません。海外との交流が莫大な富を産むのは今も昔も一緒。
その後、古事記において、半島とのかかわりは第十九代允恭天皇の頃、新羅の国王が金波鎮漢紀武を大使とする貢物、船81艘を献上したという記述があるのみです。しかし、それでも古事記だけを紐解いたとしても、古代日本と半島の密接なかかわり合いは読み取れます。
現在までの考古学の連続性において、極めて異例な方墳が発見されたのは、学問の進歩上、大変有益ではありますが、逆に驚くべきことでもなく、半島はもちろんのこと、昔も昔なりのグローバリゼーションがあったことは、古事記を読むだけでも感じ取れることではあります。
古代だから閉鎖されていたと考えるのではなく、古代なりの世界的な交流があったことはすでに様々な文物や文献で明らかなことですし、都塚古墳が渡来文化の影響があったか否かといえば、ないはずはない、というのが当たり前の情勢だったことは古事記からでも明らか。今回の調査・新発見はそれを改めて考えるきっかけになるものとして、今後の展開と発展に期待したいと思います。
【関連キャラ】
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・神功皇后 - 三韓征伐の英雄は息子を溺愛する魔性の女?
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被葬者としては蘇我氏が有力で、その中で蘇我氏全盛期の礎を築いた蘇我稲目が有力視されています。古事記にも登場する人物(ソガノイナメ)です。
しかし、古事記において、蘇我稲目(と思われる人物)は皇室の系譜の記述において、名前のみ登場するにとどまります。
ただし、その祖先は古事記においても遡れますし、今回墳丘の形としてよく指摘されている渡来文化の影響も含めて、その当たりをまとめたいと思います。
蘇我氏はまず何よりも物部氏との崇仏・排仏の論争、及び合戦が有名です。渡来の仏教を全面に押し立てた蘇我氏がこの争いを制することになりますが、その意味で、蘇我氏が渡来のものとの結びつきの強さはすでに証明されていると言えます。
蘇我稲目を古事記において遡れば、建内宿禰(武内宿禰、竹内宿禰などとも)にたどり着きます。建内宿禰は第八代孝元天皇の孫にあたる皇族で、古事記においても、第十三代成務天皇から第十六代仁徳天皇までの御世にかけて登場する、重要人物の一人です。
建内宿禰の子は古事記において男七人、女二人が記述されていますが、男子の中の一人、蘇賀石河が蘇我氏の直接の祖先となり、蘇我稲目に続いていきます(途中の、この系譜は古事記において、記述なし。つまり蘇我稲目の父である高麗(こま)は登場せず。またその子の馬子(うまこ)も出てこない)。

神功皇后の夫である第十四代仲哀天皇の不可解な急死もありながら、古事記を素直に読めば、神功皇后とともに三韓征伐事業を進めた建内宿禰。神功皇后の御子・第十五代応神天皇の頃になると、半島との交流に関してかなりの紙面が割かれています。いわば、建内宿禰はその立役者の一人とも言えます。
古事記において、神功皇后の母方の祖先は、新羅の王子・天日矛まで遡れます。父方は第九代開化天皇から連なる家系です。これらの神功皇后の系譜はすべてたどれるぐらい詳細に記述されています。なぜ神功皇后の系譜がここまで明らかなのか、それはそれでまた別の疑問ですが、とにかく、素直に考えれば、応神天皇もわずかにですが半島の血が流れている、ということが、古事記からでも明らかです。
また、応神天皇の父は、公式には仲哀天皇とされていますが、神功皇后の不可解な行動などによって、不倫の子としての建内宿禰の可能性もあります。
ただでさえ、応神天皇は半島の血を受け継いでいる。また、古事記において、複数の半島に関わる説話が掲載されている天皇でもあります。もしその父が建内宿禰であるならば、建内宿禰にも濃厚な半島性質があったことがうかがえます。

ちなみに、蘇我稲目の妻は葛城氏の出身という指摘もありますが、葛城氏出身の女性を娶らなければならないほど、当時は葛城氏の権勢が大きかったことを物語っていると言えます。それはすなわち、建内宿禰の影響力がいかに大きく、後世まで及んでいたかを示すものでもあります。
また、建内宿禰の孫で、それこそ葛城の姫である仁徳天皇の皇后イワノが、仁徳天皇の浮気に激怒して、家出した時に身を寄せたのが、山城の筒木に住む百済系渡来人・奴理能美(ぬりのみ)の邸。これは本当に唐突に登場する人物なのですが、ここにも、建内宿禰―葛城―百済(半島)という関係が見て取れます。
古事記で、応神天皇の頃の半島との交流を描いた部分において、建内宿禰は渡来してきた新羅の人々を率いて、堤の池に渡って、百済池を造成したと言われています。新羅の人を動員して、なぜ百済池なのか、というのはよく分かりませんが。それでも建内宿禰と半島とのつながりを十二分に示すもの、と言えます。

酒造の名人、須須許里が日本に渡って来たのもこの時。応神天皇がその美酒を味わい、存分に酔っ払ったことが古事記に描かれています。
史実として、応神天皇が新王朝の始祖という指摘が根強いですが、それは半島勢力との密接なつながりによる、権力及びそれを支える財政の大幅な拡張があったからなのかもしれません。海外との交流が莫大な富を産むのは今も昔も一緒。
その後、古事記において、半島とのかかわりは第十九代允恭天皇の頃、新羅の国王が金波鎮漢紀武を大使とする貢物、船81艘を献上したという記述があるのみです。しかし、それでも古事記だけを紐解いたとしても、古代日本と半島の密接なかかわり合いは読み取れます。
現在までの考古学の連続性において、極めて異例な方墳が発見されたのは、学問の進歩上、大変有益ではありますが、逆に驚くべきことでもなく、半島はもちろんのこと、昔も昔なりのグローバリゼーションがあったことは、古事記を読むだけでも感じ取れることではあります。
古代だから閉鎖されていたと考えるのではなく、古代なりの世界的な交流があったことはすでに様々な文物や文献で明らかなことですし、都塚古墳が渡来文化の影響があったか否かといえば、ないはずはない、というのが当たり前の情勢だったことは古事記からでも明らか。今回の調査・新発見はそれを改めて考えるきっかけになるものとして、今後の展開と発展に期待したいと思います。
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