作家・詩人の寮美千子氏が、毎日新聞に「ならまち暮らし:八咫烏の謎=寮美千子 /奈良」と題するエッセイを発表しました。
閲覧には会員登録が必要なので、あまり詳細には紹介できませんが、奈良の田原本町にある多神社(おおじんじゃ)の例大祭「おおれんぞ」で、「八咫烏(やたがらす)」という朗読音楽劇を奉納するそうです。
神武天皇の東遷において、道案内を果たした八咫烏。先住民の国つ神が次々と奈良に向けて進軍していく神武天皇にひれ伏し、従っていくのに納得のいかなかった氏は、この「八咫烏」で、先住民から見た神武東征を描いたようです。
「中央集権を望まないインディアンのような人々だったかもしれない。富や権力よりも、祈りの心を大切にする人々が、武力で攻めこんできた人々と出会えば、ひとたまりもない。だからこそ、あっけなく帰順したのではないか」
確かに国つ神がどんどん出てきて、名を名乗り、帰順していくのには違和感がありました。氏の説は非常に説得力があります。音楽劇、おもしろそうですね。上演は、2014年4月20日午後1時からのようです。
多神社(多坐弥志理都比古神社=おおにますみしりつひこじんじゃ)は、神武天皇と、皇后・比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)の子である神八井耳命(カムヤイミミ)を祀ります。そこから派生して、父である神武天皇、祖母である玉依姫(たまよりびめ=タマヨリ)などを祀っています。
タマヨリは姉が豊玉比売(とよたまひめ=トヨタマ)なので、やはり竜宮城の姫ではないかと思われます。複雑ですが、トヨタマはワニで、神武の祖母に当たります(神八井耳命にとっては曾祖母)。
神武天皇の死後、皇后イスケヨリは、神武の前妻との間の息子タギシミミと結婚させられます。その新しいダンナが、カムヤイミミと、その弟である神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと=カムヌナカワミミ)などを殺そうと企み、実子のピンチに対して、イスケヨリは歌に込めて、子どもたちに伝えます。
その歌によって危機を知った子どもたち、カムヤイミミとカムヌナカワミミは、先手を打ってタギシミミを討伐します。弟カムヌナカワミミに促されてタギシミミを殺そうとしたカムヤイミミでしたが、手足が震えてどうしても殺せず、それに業を煮やした弟カムヌナカワミミが兄に代わってタギシミミを殺害します。
乱は平定されましたが、神武の後継者として、兄カムヤイミミはタギシミミ殺害の失敗に恥じ入り、皇位を弟カムヌナカワミミに譲ります。そのカムヌナカワミミが二代綏靖天皇です。
以上の乱の流れは、本文にて。ともかく、皇位を譲った神八井耳命は、神を祀る仕事に就きます。多神社はここから生まれたと言われています。
カムヤイミミがタギシミミを殺せなかったことについて、寮美千子氏は「臆病だったのではなく、心やさしかったのではないかと思う。武力や富の力ではなく、祈りの力で人々の心をつなぎ、この世をより美しい、やさしい場所にしようとしたのではないだろうか」と指摘しています。
多神社やその周辺には、カムヤイミミの末裔が今も多数住んでいることから、子孫が確実に繁栄していることをうかがわせ、氏の指摘も正鵠を得ているようです。
さて、そのカムヤイミミの末裔の一人に、太安万侶(おおのやすまろ)がいます。言わずと知れた古事記編纂者とされる人です。心優しい、祈りの力で人々の心をつなぎ、この世をより美しい優しい場所にしたいと願ったカムヤイミミがいなければ、古事記も生まれてこなかった、ということでしょう。そのエッセンスは、古事記にも受け継がれているような気がします。
太安万侶は現在、多神社の祭神の一柱となっています。
寮美千子氏のエッセイで、タギシミミの乱における、神武の二人の王子、天皇家(カムヌナカワミミ=綏靖天皇)と太安万侶につながる家系(カムヤイミミ)の分岐点について、思いを馳せられました。
奉納劇の成功を祈念して。
※上の画像は、多神社の拝殿(出典:Wikipedia)、下の画像は、太安万侶像(出典:奈良県)
【関連情報】
・寮美千子ホームページ ハルモニア
・ならまち暮らし:八咫烏の謎=寮美千子 /奈良 - 氏のFacebookページ。同記事のスキャン画像
【関連記事】
・綏靖天皇陵 - 古事記では大活躍の二代目天皇も、陵墓は初代に遠慮?
・阿蘇神社で「田実祭」、神武天皇の二人の妻とそれらの子をまとめてみた - 熊本・阿蘇
【一言切り取り】
・八咫烏「ふっ、おとなしいヤツばっか」
【関連キャラ】
・八咫烏 - 三本足じゃねーよ 便利な道案内のカラス
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神武天皇の東遷において、道案内を果たした八咫烏。先住民の国つ神が次々と奈良に向けて進軍していく神武天皇にひれ伏し、従っていくのに納得のいかなかった氏は、この「八咫烏」で、先住民から見た神武東征を描いたようです。
「中央集権を望まないインディアンのような人々だったかもしれない。富や権力よりも、祈りの心を大切にする人々が、武力で攻めこんできた人々と出会えば、ひとたまりもない。だからこそ、あっけなく帰順したのではないか」
確かに国つ神がどんどん出てきて、名を名乗り、帰順していくのには違和感がありました。氏の説は非常に説得力があります。音楽劇、おもしろそうですね。上演は、2014年4月20日午後1時からのようです。
多神社(多坐弥志理都比古神社=おおにますみしりつひこじんじゃ)は、神武天皇と、皇后・比売多多良伊須須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ=イスケヨリ)の子である神八井耳命(カムヤイミミ)を祀ります。そこから派生して、父である神武天皇、祖母である玉依姫(たまよりびめ=タマヨリ)などを祀っています。
タマヨリは姉が豊玉比売(とよたまひめ=トヨタマ)なので、やはり竜宮城の姫ではないかと思われます。複雑ですが、トヨタマはワニで、神武の祖母に当たります(神八井耳命にとっては曾祖母)。
神武天皇の死後、皇后イスケヨリは、神武の前妻との間の息子タギシミミと結婚させられます。その新しいダンナが、カムヤイミミと、その弟である神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと=カムヌナカワミミ)などを殺そうと企み、実子のピンチに対して、イスケヨリは歌に込めて、子どもたちに伝えます。
その歌によって危機を知った子どもたち、カムヤイミミとカムヌナカワミミは、先手を打ってタギシミミを討伐します。弟カムヌナカワミミに促されてタギシミミを殺そうとしたカムヤイミミでしたが、手足が震えてどうしても殺せず、それに業を煮やした弟カムヌナカワミミが兄に代わってタギシミミを殺害します。
乱は平定されましたが、神武の後継者として、兄カムヤイミミはタギシミミ殺害の失敗に恥じ入り、皇位を弟カムヌナカワミミに譲ります。そのカムヌナカワミミが二代綏靖天皇です。
以上の乱の流れは、本文にて。ともかく、皇位を譲った神八井耳命は、神を祀る仕事に就きます。多神社はここから生まれたと言われています。
カムヤイミミがタギシミミを殺せなかったことについて、寮美千子氏は「臆病だったのではなく、心やさしかったのではないかと思う。武力や富の力ではなく、祈りの力で人々の心をつなぎ、この世をより美しい、やさしい場所にしようとしたのではないだろうか」と指摘しています。
多神社やその周辺には、カムヤイミミの末裔が今も多数住んでいることから、子孫が確実に繁栄していることをうかがわせ、氏の指摘も正鵠を得ているようです。
さて、そのカムヤイミミの末裔の一人に、太安万侶(おおのやすまろ)がいます。言わずと知れた古事記編纂者とされる人です。心優しい、祈りの力で人々の心をつなぎ、この世をより美しい優しい場所にしたいと願ったカムヤイミミがいなければ、古事記も生まれてこなかった、ということでしょう。そのエッセンスは、古事記にも受け継がれているような気がします。
太安万侶は現在、多神社の祭神の一柱となっています。
寮美千子氏のエッセイで、タギシミミの乱における、神武の二人の王子、天皇家(カムヌナカワミミ=綏靖天皇)と太安万侶につながる家系(カムヤイミミ)の分岐点について、思いを馳せられました。
奉納劇の成功を祈念して。
※上の画像は、多神社の拝殿(出典:Wikipedia)、下の画像は、太安万侶像(出典:奈良県)
【関連情報】
・寮美千子ホームページ ハルモニア
・ならまち暮らし:八咫烏の謎=寮美千子 /奈良 - 氏のFacebookページ。同記事のスキャン画像
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・八咫烏「ふっ、おとなしいヤツばっか」
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