能煩野11.ヤマトタケル
11-9.八尋白智鳥


倭建命(やまとたけるのみこと=ヤマトタケル)の客死の報告を受けて、その死を願い続けた景行天皇がほくそ笑んだ、かどうかは分かりませんが、ヤマトタケルの妻や子は嘆き悲しみ、すぐに能煩野(現 三重県亀山市)に駆けつけ、陵墓を作りました。

彼らは陵墓のそばの田んぼに這い回って悲しみ、歌います。

お墓のそばの田の、稲のもみの上で、
ところづらのように、
這い回って、悲しんで泣いているよ~

しかし、ヤマトタケルは大きな大きな白鳥となり、海の方へ飛び立っていきました。驚いた妻や子は、その白鳥を追いかけていき、小さな竹の切り株のある河原を通って追っていたので、足がずたぼろ。その時の様子を詠んで。

小さな竹の生えた河原は歩きにくいな~
ああ、私たちはあなたのように飛んでいけないから、
足で進んでいくしかないですから~

また、追いかけ続け、海辺を通った時に詠んだ歌。

海辺を行くのは、歩きにくいな~
広い河原にお生い茂っている草がゆらゆらしているように~
海に行くとゆらゆら足を取られて進みにくい~

さらに、その白鳥が磯伝いに飛んで行った時に詠んだ歌。

浜千鳥のように~
あなたの魂は陸を通っては行かずに
磯伝いに行かれるんですね~
(もう少し追いかける身にもなって~)

倭建命(やまとたけるのみこと=ヤマトタケル)縦480pxこの四つの歌は、ヤマトタケルの葬式に歌われた歌で、これらの歌は今でも天皇の葬儀の時に歌われると古事記は伝えています。

さて、その白鳥。とうとう河内国(現 大阪府)の士幾(しき)まで飛んでいき、そこにとどまったと言います。だから、そこにも陵墓を作り、ヤマトタケルの魂を鎮めたと言います。そのお墓が白鳥の御陵です。

しかししかし、ヤマトタケルの魂たる白鳥は、その後もまだまだ飛び続けたそうな。

ヤマトタケルにはたくさんの妻がおり、それぞれに多くの子をなしましたが、垂仁天皇の娘・布多遅能伊理毘売命(ふたじのいりひめのひめみこ)との間に生まれた皇子が、後に仲哀天皇となりました。

実父でありながらヤマトタケルを疎い続けた景行天皇、その次にその皇子の成務天皇(ヤマトタケルの異母弟)が即位して、その次が仲哀天皇となります。

※画像は、「能煩野」Google画像検索結果のキャプチャー。

【関連キャラ】
ヤマトタケル - はっちゃけ皇子の英雄譚、最期は?

【古事記の神・人辞典】
ヤマトタケル
イワツクビメ

オトタチバナ
ワカタケル
スメイロオオナカツヒコ
シバノイリキ
シバノヒメ
カグロヒメ
オオエ

シロガネ
オオナガタノ
オオナカツヒメ

オオタムワケ
フタジヒメ
イナヨリワケ

キビノオミタケヒコ
オオキビノタケヒメ
タケカイコ

ククマモリヒメ
アシカガミワケ

オキナガタワケ
クイマタナガヒコ
イイノマクロヒメ
オキナガマワカナカヒメ
オトヒメ

成務天皇
オトタカラ
ワカヌケ

仲哀天皇

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