天武朝に起源、常陸土浦藩主の寄進状、4月に茶わん祭
[住所]滋賀県長浜市余呉町上丹生378
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丹生神社(にゅうじんじゃ)は、滋賀県長浜市余呉町上丹生にある神社。北陸本線の余呉駅の北東約6キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「丹生神社二座(近江国・伊香郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

社伝によれば、第40代天武天皇の御宇、丹生真人が当地を領した際、丹保野山に神籠を設け、山土と丹生川の水を奉じ、天津神を勧請し、祀ったのが起源だという。

丹生真人は、誉田天皇の御子稚渟毛二俣王の後裔で、息長氏の一族である。息長丹生真人とも呼ばれた。

奈良時代の天平宝字8年(764年)春、現在地に社殿が創建されたという。当社の神宮寺は中林寺で、平安時代前期の承和2年(835年)、僧恵寛の開基だという。

当社が所蔵する古文書のうち、大般若経600巻の第290に奥書があり、「右経巻安置者藤原国末云々丹生御宝前所奉納云々永仁4年国末敬白」とある。

永仁4年は鎌倉時代後期の1296年。さらに、第283巻に「近江国伊香郡余呉庄丹生郷頭主藤原国末為後世菩提幻奉迎」とある。

南北朝時代の貞和3年(1347年)、もとより当社を崇敬していた当地の武将佐々木家から太刀一振と田4反が寄進された。

中世には「丹生大明神 天神 白山 両宮」あるいは「上丹生天神白山」「天神白山権現」と呼ばれていたという。

戦国時代の大永6年(1526年)より享禄3年(1530年)に至る再建、陳上、奉祀、加帳があり、社運隆盛に伴い、江戸時代前期の寛文3年(1664年)、現在の社殿が建立された。

土屋相模守寿直からの鳥目千疋寄進状が伝わるという。土屋寿直(1761年-1777年)は、常陸土浦藩の第5代藩主。当地との関係は不明。

ただし、近江彦根藩第12代藩主の井伊直幸(1729年-1789年)の娘に、成姫(雍姫)がいる。これが土屋寿直の婚約者だったとされる。

寿直が早死にしたため、その婚約関係も御破算になったのだろう。おそらくそう長くない婚約時期、寿直が当社に奉納したものと思われる。

ちなみに、成姫は後に窈関院とも呼ばれたようだが、肥前佐賀藩主鍋島治茂の継室となった。

明治維新までは中林寺の僧が祭祀を司ったが、明治後は分離して、村社に列し、明治41年(1908年)、神饌幣帛料供進社に指定された。

御祭神は、丹生比津売命彌津波能売命で、土と水の神。御神紋は円山水。例祭は4月3日で茶わん祭である。

この地域で良質の陶土が採掘できたことから、優れた陶土と技を授けてくださった神に感謝し、陶器を当社に奉納するようになったのが由来とされる。

様々な特徴があり、奇祭とも言われている。3基の曳山には、陶器をつなぎ合わせた山車飾りが取り付けられ、その高さは約10メートルにもなる。

山車づくりの技法は秘伝とされ、選ばれた工匠のみに口伝され、茶わん祭の伝統美は親から子、子から孫へと継承されてきた。

稚児の舞、花笠踊り、神輿の渡御など、古式を守って執行されるこの祭りは、県の無形民俗文化財に指定されている。

本殿は二間社流造で、間口2間、奥行1間5尺。拝殿は入母屋造で、間口4間、奥行2.5間。境内社に、伊波佐伎神社・乎地岩神社・稲荷神社がある。

境外社として、八幡神社・蛭子神社がある。当社の近くに、茶わん祭りの館がある。土日のみ開館、8月には夏季集中開館日がある。

なお、式内社「丹生神社二座」の論社は他に、下丹生の同名神社がある。二座なので、上と下がそれぞれ一座ということもありそうだが、そうした見解はないようだ。

【ご利益】
事業成功、産業振興、五穀豊穣、地域安全
丹生神社 滋賀県長浜市余呉町上丹生
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