式内・神坐日向神社、奥津磐座の近くに日向御子神を祀る
[住所]奈良県桜井市三輪山山頂
[電話]0744-42-6633 - 大神神社
高宮神社(こうのみやじんじゃ)は、奈良県桜井市三輪山の山頂近くにある神社。頂上付近の奥津磐座(おきついわくら)の近く。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「神坐日向神社(大和国・城上郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の論社。大神神社の奥宮であり、摂社である。
三輪山への登拝は、やはり大神神社の摂社である狭井神社の境内に入口がある。一切の撮影が禁止された聖地である。
創祀年代は不詳。御祭神は日向御子神。例祭は4月9日。三輪山には、下方に辺津磐座(へついわくら)、半ほどに中津磐座(なかついわくら)、頂上付近に奥津磐座がある。
現在、三輪山の登拝において拝観できるのは、奥津磐座のみ。奥津磐座は大物主大神、中津磐座は大己貴神、辺津磐座は少彦名神を祀る、とも。
あるいは、奥津磐座単体で、主神を大物主大神、配神を大己貴神・少彦名神とする場合もある。
三輪山頂上近くの社、つまり当社は『倭姫命世記』にある「弥和乃御室嶺上宮」の候補地であり、元伊勢と考えられている。
御祭神の日向御子神とは、「日に向かう」「日を迎える」「日を拝する」御子(王子)と理解される。元伊勢伝承から、天照大神が連想される。
一方で、古くは大物主大神が『古事記』において、海を輝かせながら登場したことから、大物主大神そのものを日の神とする考えもあったという。
三輪山の山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境である標高1249メートルの高見山の彼方、伊勢の方角から昇るという。
もともと太陽信仰のあるところだから、元伊勢となったのであり、元伊勢になったから太陽信仰が生まれた、とは考えづらい。
大神神社の御神体である三輪山、そのもっとも重要であろう頂上にある奥津磐座、その祭祀が行われる中で整備されたであろう当社。
この流れの中から考えると、やはり大物主大神が太陽神であり、日向御子神とは大物主大神そのものか、後裔か、大物主大神の祭祀者か、と考えられるか。
式内社「神坐日向神社」は『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)に従五位上に進んだ。他の論社に、山麓にある式内同名神社がある。
明治18年(1885年)、大神神社から内務省へ、山上の当社と山下の神坐日向神社との名称が誤って入れ替わっているから訂正したいと上申された。
しかし翌明治19年(1886年)、保留を指令され、現在に至っている。つまり当社名は本来が式内社名で、現在山下の式内社名の社こそが高宮神社ということになる。
どちらにしろ、山上の当社と山下の式内同名神社の関係は密接だと考えられ、当社が山宮に対して、山下の社は里宮とも考えられる。
政府の縛りがない現在、社名の入れ替えが行われてもよさそうだが、今度は神社本庁との兼ね合いだろうか、そうした形跡はない。
【ご利益】
平穏安寧、諸願成就
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『延喜式神名帳』にある「神坐日向神社(大和国・城上郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の論社。大神神社の奥宮であり、摂社である。
三輪山への登拝は、やはり大神神社の摂社である狭井神社の境内に入口がある。一切の撮影が禁止された聖地である。
創祀年代は不詳。御祭神は日向御子神。例祭は4月9日。三輪山には、下方に辺津磐座(へついわくら)、半ほどに中津磐座(なかついわくら)、頂上付近に奥津磐座がある。
現在、三輪山の登拝において拝観できるのは、奥津磐座のみ。奥津磐座は大物主大神、中津磐座は大己貴神、辺津磐座は少彦名神を祀る、とも。
あるいは、奥津磐座単体で、主神を大物主大神、配神を大己貴神・少彦名神とする場合もある。
三輪山頂上近くの社、つまり当社は『倭姫命世記』にある「弥和乃御室嶺上宮」の候補地であり、元伊勢と考えられている。
御祭神の日向御子神とは、「日に向かう」「日を迎える」「日を拝する」御子(王子)と理解される。元伊勢伝承から、天照大神が連想される。
一方で、古くは大物主大神が『古事記』において、海を輝かせながら登場したことから、大物主大神そのものを日の神とする考えもあったという。
三輪山の山頂から拝する冬至の朝日は、山頂から直視できる大和と伊勢の国境である標高1249メートルの高見山の彼方、伊勢の方角から昇るという。
もともと太陽信仰のあるところだから、元伊勢となったのであり、元伊勢になったから太陽信仰が生まれた、とは考えづらい。
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この流れの中から考えると、やはり大物主大神が太陽神であり、日向御子神とは大物主大神そのものか、後裔か、大物主大神の祭祀者か、と考えられるか。
式内社「神坐日向神社」は『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)に従五位上に進んだ。他の論社に、山麓にある式内同名神社がある。
明治18年(1885年)、大神神社から内務省へ、山上の当社と山下の神坐日向神社との名称が誤って入れ替わっているから訂正したいと上申された。
しかし翌明治19年(1886年)、保留を指令され、現在に至っている。つまり当社名は本来が式内社名で、現在山下の式内社名の社こそが高宮神社ということになる。
どちらにしろ、山上の当社と山下の式内同名神社の関係は密接だと考えられ、当社が山宮に対して、山下の社は里宮とも考えられる。
政府の縛りがない現在、社名の入れ替えが行われてもよさそうだが、今度は神社本庁との兼ね合いだろうか、そうした形跡はない。
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