「つべしろ」は、素盞鳴尊が休息し杖を残した地の「杖シロノ社」
[住所]島根県安来市広瀬町広瀬1415
[電話]0854-32-2904

都弁志呂神社(つべしろじんじゃ)は、島根県安来市広瀬町広瀬にある神社。飯梨川西岸、山陰本線の荒島駅から南下すること約10キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「都辨志呂神社(出雲国・意宇郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。社伝によれば上古、素盞鳴尊岐戸神の先導により能義地方を巡行した際、現在の広瀬町広瀬本町札場のあたりで休息した。

その後、安来方面に向って出発の際、そこに杖を残していったのを郷人が見つけ、「此杖は尊の杖なればいと畏れ多し」とし、奉斎することとした。

その杖と、尊の腰かけていた石を尊の霊代(憑代)とし、その附近、今の鍛冶町後丁に祠を建て、「杖シロノ社」として、上記二神を奉斎したのが起源。

『出雲風土記』には「都俾志呂乃社」として記載されている。平安時代、第55代文徳天皇(在位:850年-858年)の御代に正六位上に進んだ。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1593年)、毛利元康が寄進した。元康は天正14年(1586年)から天正19年(1591年)まで、出雲月山富田城主だった。

もとは、その鍛冶町後丁に鎮座していたが、火災・水害のため、江戸時代前期の寛文8年(1686年)、伊吹山の麓に遷座した。

さらに、延宝5年(1677年)、現在地に遷座した。災害や遷座などもあり、当社には古文書が多く残されておらず、不明な点も多い。

ただし、それ以降の記録は多く、近世を通じて都弁志呂大明神と崇敬され、下記のように社殿の造営や修復が相次いだ。

元禄13年(1700年)、享保3年(1718年)、元文2年(1737年)、明和2年(1765年)、寛政10年(1798年)、文政8年(1825年)、安政2年(1855年)

江戸時代を通じて、およそ20年-30年ごとにしっかりと行われていることが分かる。地元氏子の崇敬が篤いかったのだろう。この伝統は現在の境内の様子からもうかがえる。

明治になり、村社に列し、その後、神饌幣帛料供進社に指定された。現在までに大山祇神金山彦神を合祀している、とも。例祭は10月9日。

拝殿に向かって左に樹齢200年の椎があり、荒神社(素盞嗚尊の荒魂)が鎮座する。境内社は他に、山中社・天満宮、塩釜社、稲荷社、大地主神がある。

【ご利益】
病難退除・災禍消滅・交通安全
都弁志呂神社 島根県安来市広瀬町広瀬
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