伝承・文化財の宝庫、相殿に式内・大原神社、5月次の日祭り
[住所]島根県邑智郡邑南町阿須那3
[電話]-

賀茂神社(かもじんじゃ)は、島根県邑智郡邑南町阿須那にある神社。近代社格では郷社。三江線の宇都井駅の南約4.8キロ。御朱印の有無は不明。

創祀年代は不詳。社伝によれば、往昔、当社の社人が川で鴨の白羽の矢が、柏の葉に乗って流れてきたのを拾い上げ、山丘崎の榊の下に置いた。

その夜、「柏の葉は国津神、白羽の矢は応化百王の守護である」と神のお告げがあり、翌日、榊のもとへ行ってみると、すでに矢も柏もなくなっていた。

社人は、国津神は大己貴命少名彦神、応化百王の守護神とは上賀茂神、つまり賀茂別雷神であると考え、阿須那八ヶ庄の氏神とした。

神紋は三つ柏で、伝承との関連があるようだ。阿須那八ヶ庄とは、阿須那・宇都井・戸河内・雪田・口羽・上田・都賀・大林のことである。

合祀され、現在は相殿に祀られている大原神社は、『延喜式神名帳』にある「大原神社(石見国・邑智郡)」に比定される式内社(小社)の論社である。

式内社「大原神社」の論社は他に、町内の日貫上田所に式内同名神社がある。

当社由緒の国津神は、この大原神社を指すのではないか、との指摘がある。その場合、当社そのものよりも、古くから祀られていたことになる。

本来、大原神社として祀られていた地が、京都上賀茂の社領となり、賀茂神へ信仰の主体を変化させた、というもの。

大原神社は一説に、延喜元年(901年)4月8日の勧請。これだと、延喜5年(905年)編纂開始、延長5年(927年)編纂完了した『延喜式』に収録されるにはぎりぎりか。

大原神社の御祭神は、武甕槌神天津児屋根命齋主命・姫大神。現在は、先の日貫の大原神社同様、京都大原野と同様の御祭神になっている。

戦国時代の天文19年(1550年)9月、大江(毛利)隆元と口羽通良が当社を再建した。弘治4年(1558年)には通良が天神宮(天満宮)を建立した。

これらの棟札が残る。また、元亀4年(1573年)11月、通良が大宅(高橋)氏一党鎮魂の八注連神楽を奉納した際の置札が伝わる。

当社の御祭神は、賀茂別雷命。相殿大原神社の他、菅原道真豊受姫命神功皇后応神天皇玉依姫命・少名彦命・大年神・地主神・猿田彦之命受母智神を合祀している。

例祭は5月21日。次の日祭り(じのひまつり)として有名。京都の賀茂祭(葵祭)に由来すると考えられる祭礼である。

延文2年(1357)の代古屋文書によれば、旧暦4月の2番目の酉の日に執行されていた。新暦採用以降、現在の日程になったという。

「傘鉾の奉納」が特に知られ、5色の短冊を吊り下げた直径約4メートル、高さ5メートルの大きな傘鉾を氏子たちが引き回しながら、社前の通りを練り歩く。

その他にも、夜には神楽の奉納が行われたり、田植えばやしも開催されるなど多くの人で賑わう。

境内社に、八幡宮・金刀比羅神社・剣神社・天満宮・恵比須神社がある。境内のカヤには宇治川の先陣争いで有名な名馬「池月」がつながれたとされる。

「賀茂神社の社叢」として町の天然記念物。他に境内にはイチョウの大木が2本並び、10月下旬から11月上旬の紅葉の際は地面いっぱいに黄色い葉が敷き詰められる。

石段の左手にスギがどっしりとそびえ、社殿の近くには、上体をかがめたように立つスダジイがあり、細長い幹にたくさんの枝を伸ばしたイチイもある。

板絵著色神馬図二面が伝わる。永禄12年(1569年)、大宅朝臣(高橋)就光が祈願成就のお礼と天下泰平などの祈願を込めて奉納した白馬と黒馬の一対の絵馬。

画師は狩野治部少輔秀頼。歴史的な資料としてはっきりしとした伝世品であり、絵画として活き活きとして素晴らしいことなどで、国の重要文化財に指定されている。

当社には阿吽二対の木彫狛犬があり、吽形の二体には角がある。作者などは不明だが、室町時代中期以前に制作されたものと考えられる。

鎌倉彫刻の影響を残す良品で、四体ともに直毛のたてがみが頭から肩に沿って流れ、背骨と肋骨は葉脈のような印象を受ける表現。町指定有形文化財である。

三十六歌仙絵馬が三種49枚伝わる。筆者などは不明だが、いずれも江戸時代のもの。中型2枚は、当社が合祀した松尾山八幡宮に奉納されたものだという。

【ご利益】
厄災除け、地域安全、家内安全
賀茂神社 島根県邑智郡邑南町阿須那
【関連記事】
島根県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、島根県に鎮座している神社の一覧