坂上田村麻呂が創祀、源義家が祈願、式内・長瀬神社の論社とも
矢津八幡宮 新潟県五泉市矢津1896
[住所]新潟県五泉市矢津1896
[電話]-

矢津八幡宮(やづのはちまんぐう)は、新潟県五泉市矢津にある神社。磐越西線の五泉駅の南東約5.5キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「長瀬神社(越後国・蒲原郡)」に比定される式内社(小社)の論社。正八幡宮とも。

当地には縄文時代の遺跡である矢津遺跡などがあり、早くから開発されていた地域だという。

平安時代初期の大同2年(807年)、征夷大将軍である坂上田村麻呂が東夷征討の際、当地を訪れ、戦勝祈願のために八幡神の御分霊を勧請したのが始まり。

その際、家臣とされる従五位の上兵部大夫広継を当宮の守護者として当地に配したと伝わる。『越後國式内神社案内』には、下記のようにあり、式内論社とされる。
如何トナレバ、社頭ヨリ巳午ノ方ヘ、畑中ニ土居ノ如ク、高廿丈余計ノ長瀬拾丁余モ是有、是萬代不易ノ瀬也、故ニ爾云
他の論社に、加茂市の八幡宮寄上に式内同名神社がある。どちらにしろ、当宮は菅名荘の惣社として住民や歴代領主から崇敬、庇護された。

天喜5年(1057年)、奥州で前九年合戦が勃発、阿部貞任の討伐のため、当地まで進軍した源義家が戦勝祈願を行った。

見事念願が成就すると感謝の意から、社領と弓箭を寄進した。この弓箭が地名である矢津の由来とも伝わる。

当地は交通の要衝で、早出川の水運の拠点だったため、中世はその争奪戦の兵火により、当社もたびたび焼失し、衰微した。

江戸時代に入ると、村松藩の藩主堀家の崇敬社として再興された。江戸時代前期の寛文元年(1661年)、2代藩主堀直吉によって社殿が造営された。

これが現存の本殿で、三間社流造、桁行4.27メートル、梁間3.72メートル、木羽葺、江戸時代初期の神社本殿建築の遺構として貴重。

全体の木柄は太く、軸部や妻飾りなどは、江戸時代初期の形式をよくとどめている。県の文化財に指定されている。

神明宮春日神社日枝神社住吉神社とともに村松藩五社に数えられ、特に、坂上田村麻呂と源義家が当社にゆかりがあるため、武神として藩士の崇敬を受けた。

武神としてにとどまらず、山の神、作神としてその関係者から篤く信仰された。現在の拝殿は幕末の安政5年(1858年)に造営されたもの。

寄棟、鉄板葺、桁行7間、梁間4間、平入、華美な装飾が少ない質素な建物。当社の御祭神は誉田別命。配神は息長足比売命玉依比売命

明治41年(1908年)、字諏訪林の諏訪神社(健御名方命)、字伊右衛門屋敷の十二神社(大山祇命)、字中原の神明宮(豊受姫命)、字上ゲンの若宮八幡宮(大雀尊素盞嗚尊)を合祀した。

明治42年(1909年)、横渡の十二神社(大山祇命)を、明治45年(1912年)には熊沢の熊野社(伊邪那美尊)を合祀した。

大正元年(1912年)、笹目の十二神社(大山祇命)と下杉川の十二神社(大山祇命)を合祀した。

大正2年(1913年)、矢津川下の旗立神社(誉田別尊)、松野の若宮神社(大鷦鷯尊・大山祇命)、石曽根村字馬場の若宮八幡宮を合祀。

大正4年(1915年)、笹目の赤城神社(磐筒男命・磐筒女命)を合祀した。境内社として、事平神社(大己貴命倉稲魂命・素盞嗚尊)と赤子柗神社(磐長比賣命)がある。

例祭は、4月15日で春季例祭。9月14・15日が秋季例祭。

【ご利益】
厄災除け、安産、家内安全、地域安全
矢津八幡宮 新潟県五泉市矢津
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