『万葉集』に謳われた地、相殿の八幡社・為朝社が重文、10月獅子舞
[住所]長野県下伊那郡下條村陽皐4588
[電話]0260-27-2183

大山田神社(おおやまだじんじゃ)は、長野県下伊那郡下條村陽皐にある神社。飯田線の門島駅の西約5キロ。天竜川を渡り、国道151号線を越える。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 伊那郡「大山田神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

創祀年代は不詳。古代この辺り一帯は「菅野荒野」と呼ばれ、『万葉集』にも下記のように歌われ、平安時代初期の公卿、菅野朝臣真道(741年-814年)縁の地だという。
巻14 3352
信濃なる 須賀の荒野に ほととぎす 鳴く声聞けば 時過ぎにけり
源為朝は源為義の八男で、九州に追放されたため、鎮西八郎とも称される源氏の武将。平安時代末期の保元の乱で、為義とともに崇徳上皇方に属して敗れた。

為義は伊豆大島へ流され自害したが、その二男である大島二郎為家が伊豆から逃れて当地に至り、大島氏を名乗ったという。

為家は父である為朝の霊を八郎明神として当社に祀ったため、当地を伊賀庄鎮西野と称するようになった。また、源氏の氏神である八幡宮(応神天皇)も祀った。

あるいは、当地は「よしかたいら」と呼ばれていたが、室町時代、領主下条氏が吉岡城を築城した。

その際、その西方の地に八幡大神を勧請して鎮西八幡宮と諏訪明神宮(建御名方命)を祀り、一族の氏神としたことにから鎮西と称するようになったともされる。

八幡大神・八郎明神の勧請により、式内社名は忘れ去られたが、江戸時代になって、式内社として復興、復称したという。

この復興の時、現社地にあった鎮西八幡宮に、菅野の根ノ神社の大国主命を勧請して式内社「大山田神社」とし、相殿に八幡大神と諏訪明神を祀ったという。

つまり、本来の式内社「大山田神社」は菅野の根ノ神社とも考えられ、また「山田」が共通するとして、阿南町深見字東條の山田池明神も論社とされる場合がある。

江戸時代前期の寛永年間(1624年-1645年)、強風による倒木のため、八郎明神社殿が損害を受けるなど荒廃した時期もあったという。

しかし貞享(1684年-1688年)、延享(1744年-1748年)、宝暦(1751年-1764年)に神主らによって修復された。

明治5年(1872年)11月、あるいは明治7年(1874年)、郷社に列した。例祭は4月第2日曜日、10月第2日曜日。

10月の例祭は体育の日とも。江戸時代前期から伝わるギョウド獅子舞が奉納される。東海地方の影響による神楽獅子の系統で、県下でも珍しいもの。

大己貴命(大国主命)を祀る本社は比較的新しいが、相殿の八幡社・為朝社は戦国時代の永正3年(1506年)、あるいは翌永正4年(1507年)の再建である。

下條氏7代下條家氏が京都より招いた工匠吉村和泉守一門によって造られたもの。蟇股、木鼻、斗拱など当時の中央文化の技法を伝える数少ない貴重な社殿。

向かって右が八幡社で、左が為朝社。二つの社には彫刻がなく、意外とあっさりとした構造で、かなり古くから覆屋に守られたのかほとんど傷んでいない。

八幡社は為朝社とほとんど同じで、目立った違いは蟇股の彫刻。八幡社は花橘に2羽の鳩で、為朝社は鳩1羽になっている。この二つの社殿が国の重要文化財に指定されている。

殿内にある大国主命の2対の神像は、平安時代前期の延喜年間(901年-923年)の作と伝わる。

拝殿の左右に境内社が並んでおり、八百萬社、稲荷社、五社などがあるという。参道にも小祠が祀られ、境内右手には不動明王・浅間大神の石碑がある。

社叢は長野県自然100選の一つで、ここには約280種類の南限・北限の植物が繁茂する植物学上貴重な場所で、特に「青木」の群生 は珍しい。推定樹齢800年の大杉もある。

【ご利益】
病気平癒、厄災除け、無病息災
大山田神社 長野県下伊那郡下條村陽皐
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