崇神朝創祀の新羅大明神、相殿に式内・奈具神社、明智光秀の石燈籠
[住所]京都府京丹後市弥栄町溝谷46-2
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溝谷神社(みぞたにじんじゃ)は、京都府京丹後市弥栄町溝谷にある神社。京都丹後鉄道宮豊線の峰山駅の北東約6キロ。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「溝谷神社(丹後国・竹野郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

弥栄町溝谷は、弥栄町中心部に続く谷で細長く、東部の谷あいは外村という。当社はその外村の南に鎮座する。

創祀年代は不詳だが、一説に、第10代崇神天皇の御代、丹波道主命が当国に派遣され、当地方平定後、土形の里に国府を定め、居住した。

ある時神夢による教えがあり、「真名井のト、ヒツギ谷に山岐神あり、素盞嗚尊を以て三宝荒神と斎き奉らぽ天下泰平ならん」と。

そこで、丹波道主命は神教に従い、丹波の国真名井のト、ヒツギ谷の麓の水口に新宮を建て奉斎したのが当社の起源だという。

その水の流れる所を溝谷の庄と呼ばれた。外村の旧名トの邑というのは、真名井のト(北)が外の字に変ったもの、とされる。

その後、丹波道主命の御子である大矢田宿弥は第13代成務天皇、第14代仲哀天皇神功皇后に仕えた。

神功皇后の三韓征伐に従い、新羅に留まり、鎮守将軍となり、新羅より毎年多量の貢物を献じさせた。

その後、帰国の際、波風が高く、航海に難渋した。そこで、素盞嗚命の御神徳を仰いだところ、波風が収まったので、帰国後、当社を新羅大明神と奉崇したという。

『日本三代実録』元慶元年(877年)12月29日において、従五位下に進んだ。平安時代末期の永万元年 (1165年)、平重盛が武運長久祈願のため再建した。

室町時代の嘉吉3年(1443年)、大洪水で奈具神社が流失。その後、当社の相殿で祀られていたという。つまり、当社は式内社「奈具神社」の論社でもある。

安土桃山時代の天正年間(1573年-1592年)、織田信長が社殿を改築したと伝わる。後述のように、明智光秀が石燈籠を献納したという。

幕末の文久3年(1863年)3月、勅願により「夷狄退散天下泰平」の祈祷が行われた。明治2年(1869年)4月、再建された。

明治6年(1873年)2月、村社に列し、同年6月、式内社「奈具神社」の社号と霊石を船木奈具神社に移したという。

明治40年(1907年)3月1日には神饌幣帛料供進社に指定された。御祭神には諸説あるが、新羅大明神の須佐之男命、奈具大明神の豊受気能比売命天照大神。例祭は10月10日。

境内社に、大宇迦神社(大宇迦命・丹波道主命・天日鷲命・澳津彦命奥津姫命大宮賣命天香山命)、棚機神社(棚機姫命・火産霊命市杵島姫命布津主命)がある。

本殿下に向かって右側の簡易な覆屋の中に石燈篭がある。社伝によれば、明智光秀が奉納したと言い伝える。

花崗岩製で、八角形、円筒竿、火袋大面取りの石燈篭。基礎の上に一段の造り出しを設け、その上に伏蓮華文を置き、中台の側面を薄くして長方形の羽目を彫る。

総高231.4センチ、その作りから、無銘ではあるが、鎌倉時代後期の制作と考えられている。

【ご利益】
厄災除け、交通・海上安全、開運招福、五穀豊穣
溝谷神社 京都府京丹後市弥栄町溝谷
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