丹波道主命が創祀、近世には稲荷社、江戸後期に復興、明治に認定
伊也神社 京都府綾部市広瀬町城山14-3
[住所]京都府綾部市広瀬町城山14-3
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伊也神社(いやじんじゃ)は、京都府綾部市広瀬町城山にある神社。山陰本線の山家駅の北約2キロほど、由良川を渡る。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「伊也神社(丹波国・何鹿郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

社伝によれば、第10代崇神天皇10年、丹波道主命が何鹿郡に来て、甲ケ峯の麓に宮殿を造営し、大日霊売尊月夜見尊素盞嗚尊の三神(三貴子)を祀ったのが起源。

甲ケ峯の麓は、現在の広瀬町の北側、伊神とも呼ばれる標高356メートルの伊也ケ谷の東端。現社地から北東1.5キロほどの地。

丹波道主命の死後、その御神霊を勧請した、とも。中世になって、豪族和久氏が、伊也ケ谷山頂に築城し、当社を崇敬したが、天正年間(1573年-1593年)の大火によって焼失。

近世初期、山家藩谷氏は広瀬町に八幡神社と谷霊神社を建立し、この二社を崇敬社とした。山家神社の郭外にある当社は廃れた。

社号の「いや」が「いなり」に転訛し、稲荷社と呼ばれて軽視され、その由緒などは忘れられた。ただ、旧宮跡は「御社(ごしゃ)」と呼んで、神聖地として崇敬された。

御祭神について、「いや神」ということで、これは「いやひこ」であり、偉大なイヤヒコが大屋彦となり、大屋彦命を祀る、という説もある。

江戸時代後期の文化7年(1810年)10月、従二位清原宣光は宿願成就により現在地の盤座の清地に本殿を移転・新築した。

明治3年(1870年)、山家陣屋が火事のため全焼し、当社も焼失したが、翌明治4年(1871年)に再建された。

明治6年(1873年)、文化7年の清原宣光の祈願文が発見され、明治10年(1877年)6月には式内社であることが確認された。

清原宣光については、与謝野町石川の物部神社の鳥居にも書が残る。昭和55年(1980年)、大本教が祭主となって社殿が修復・改築された。

例祭は10月10日で秋祭。隣接する山家城址公園の入口に、谷霊神社がある。鳥居と、社号標「藩祖 谷霊神社」がある。江戸期を通じて、当社より崇敬された社である。

山家城址は、谷出羽守衛友が天正10年(1582年)、豊臣秀吉より1万6000石によって、美濃国から封ぜられた、谷藩政中心の地。

【ご利益】
厄災除け、開運招福、家内安全
伊也神社 京都府綾部市広瀬町城山
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