由緒不詳、十六柱の意味も不明も、王子造の立派な本殿、式内論社
十六柱神社 兵庫県朝来市和田山町林垣1285
[住所]兵庫県朝来市和田山町林垣1285
[電話]079-672-3610 - 赤渕神社

十六柱神社(じゅうろくはしらじんじゃ)は、兵庫県朝来市和田山町林垣にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「更杵村大兵主神社(但馬国・養父郡)」に比定される式内社(小社)の論社。兵主神社の一つ。近代社格では村社。

山陰本線の養父駅と和田山駅の間。県道104号線で、糸井橋交差点を10号線に東進して進む。集落に入り、随泉寺の手前。

創祀年代は不詳。式内社「更杵村大兵主神社」は、『但馬郷名記』によれば、飛鳥時代、第42代持統天皇4年(690年)、養父兵団の置かれていた更杵に兵主神を祀ったのが創祀。

『国司文書 但馬故事記』によれば、持統天皇2年(688年)秋7月、養父郡の更杵村に兵庫が設けられたとある。

それによれば、三宅宿祢神床陣法博士が大生部了(おおふのさとる)を率い、一国の壮丁4分の1を招集し、武事を講習したという。その地に、兵庫を設け、大兵主神を祀った。

「更杵」の名称は、天日槍命の岳父である前津耳の子孫、佐良公がこの地に住んでおり、佐良公村が更杵村に転訛したという。

『国司文書 但馬故事記』によれば、第44代元正天皇の御宇、奈良時代初期の養老3年(719年)冬10月、機能を拡張した。

この際、養父郡の兵庫を浅間邑に遷し、健児所(こんでいしょ)を置いた。伊久刀首武雄は、兵主神を浅倉に祀ったという。

つまり、当地から式内社「更杵村大兵主神社」にとっても要の兵庫が、早々になくなったことを意味し、その衰退に直結したとも考えられる。

ちなみに、浅倉の地には新たに兵主神社が創建された。やはり式内社で、現在の豊岡市日高町浅倉の兵主神社である。

幕末に至り、式内社「更杵村大兵主神社」は所在不明の状態で、復興が計画された際、当地の林垣と寺内が対立した。

結局は寺内に復興、現在の更杵神社である。しかし、更杵神社の境内や社殿の整備状態が悪く、式内社として認められなかった。

そこで、式内社「更杵村大兵主神社」は当社であると報告され、現在までそれが式内比定に影響している。

確かに、当社社殿は創祀や由緒が全く不祥な神社としては異例の、王子造の本殿を中心とした立派な社殿を有している。

社名から16柱の神々を祀るとも考えられているが、一説に素盞嗚尊を十六柱明神とするという。ただし、御祭神不詳とされる場合が多い。

旧糸井郷には8ヶ村あった。『但馬郷名記抄』によれば、更杵・漢部・巌床・和機・幡文・楯縫・土師・矢作・楯石。

『大田文』には、「法勝寺領糸井ノ庄、今は糸井谷と云う」とあり、朝日・竹ノ内・和田・市場・高生田・寺ノ内・林垣・室尾としている。

林垣は旧糸井郷(糸井庄)の最も中心的な場所で、当社は各村の神社の御祭神をすべて合祀した郷社惣社だという指摘もある。八つの集落に2柱ずつで16柱。

ただ、各村の御祭神がちょうど2柱ずつだった、あるいは8ヶ村の御祭神を合計したら、ちょうど8×2の16柱だった、というのは都合よすぎるきらいがある。

兵主神社の御祭神は八千矛神である場合も多く、たとえば「大兵主」と呼ばれた式内社を暗示させるものとして、二つの「八」の十六というものになった、というのも、少し無理があるか。

本殿の右手に、小さな祠ながら赤い鳥居がある境内社の稲荷社がある。境内の左手にいくつかの祠があり、左から、甲子神社・行者堂・夜鳴荒神。

夜鳴荒神の覆屋の中には小さな祠が安置され、鶏の絵馬が奉納されている。また、本殿の玉垣内には狛犬一対が安置されている。

【ご利益】
厄災除け、地域安全、家内安全
十六柱神社 兵庫県朝来市和田山町林垣
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