「塩の道」秋葉街道、家康も祈願、室町期本殿、屋台「神奏社」
[住所]静岡県周智郡森町三倉字大久保4447
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八幡神社(はちまんじんじゃ)は、静岡県周智郡森町三倉字大久保にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「馬主神社(遠江国・周智郡)」に比定される式内社(小社)の論社。三倉八幡神社とも、大久保八幡神社とも。

創祀年代は不詳。式内社であれば、平安時代前期には存在しなければならないが、当地一帯に集落が形成されたのは『延喜式』後の平安後期ともされる。

三倉郷は中央の白山中尾峯東の菰張山、そして西は一宮本宮山黒山から続く三丸山の三峯が大府川と三倉川を挟む。

三倉の「倉」は古語で、崖を意味し、その三峯二川が集まる急峻な所、これが三倉の地名の由来である。

当地大久保は三丸山下の大きな窪みで、原始古代から信州と遠州を結ぶ交易の尾根道(塩之道)上にあたる。

八幡としての奉斎時期も不明だが、南北朝時代には存在していたともされる。現存の社殿は、戦国時代の天文21年(1552年)の建立。

安土桃山時代の天正2年(1574年)、徳川家康は武田方、犬居城の天野氏を攻め、当地三倉山に陣取り、当社へ武運長久を念じた。ただし合戦においては敗走した。

後に天下平定を打ち立てた家康は、江戸時代初期の慶長16年(1611年)、田龍・大久保・中野・乙丸・舟場の名主を召し出した。

そこで、天下泰平の短冊を大般若経御前に盃を奉じ、苦難から救ってくれたことに感謝したと伝えられる。

戦国時代から江戸時代にかけて、信州と遠州を結ぶ交易の「塩の道」だったことはもちろん、秋葉山のへの表参道として「秋葉街道」と呼ばれ、秋葉常夜灯や道標なども残る。

現在、森町では大久保地区を含む三倉地区を「戦国夢街道」ハイキングコースとして整備している。

内山真龍『遠江風土記伝』によれば、大久保地域内には除地高順で、金山社・地神社・荒神社・権現社・天神社の五社が記録されている。

現在地にはもとは江戸時代前期の貞享元年(1684年)に建立され金山社があり、その後、八幡社となった。貞享元年はちょうど、現本殿改修の年。

元禄13年(1700年)には、八幡社以外の四社を合祀して、現社号を称するようになったとされる。武術の神として崇敬されたという。

往時は毎年1月15日の祭典で、馬の速馳けなどの行事が行われていたという。また、遠い信濃への旅の途次、商売繁盛や旅の安全を祈願したとも伝わる。

明治12年(1879年)、村社に列した。御祭神は誉田別命。例祭は8月15日。前日の14日と合わせて、屋台「神奏社」が地域の人たちによって曳かれている。

この屋台は昭和3年(1928年)、地元大工の北谷仲造によって建造された2代目屋台。

当社本殿は、棟札に「奉再宮八幡大菩薩之御宝殿畢于時天文21年壬子極月15日」とある。大久保大屋・田尾禰宜・大河内など寄附者8人も記載されている。

貞享元年に改修されてはいるものの、県内に現存する社殿としては引佐方広寺七尊菩薩堂に次ぐ古いもの。県の文化財に指定されている。

身舎・向拝6本の柱や木鼻・肘木・組物に往時の部材が確認される。向拝柱は面取りが深い角柱で、かつては丹を施し、宝珠や雲形文様が線描されるなど華麗な建物だった。

間口3間、奥行き7間の重層な造りで、屋根部分は厚い杉板を大和葺し、中世の建築遺構を今に伝えている。

なお、式内社「馬主神社」の論社は他に、浜松市天竜区佐久間町の中部の馬背神社、相月の諏訪神社、半場の神妻神社がある。

【ご利益】
厄災除け、武運長久・勝運、スポーツ・技芸上達
八幡神社 静岡県周智郡森町三倉4447
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