直虎花押の社は応神朝創祀の式内古社、直虎御朱印帳に限定朱印
[住所]静岡県浜松市北区細江町中川6915
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蜂前神社(はちさきじんじゃ)は、静岡県浜松市北区細江町中川にある神社。天竜浜名湖線の金指駅の南、国道257号線を南下して都田川を渡ってすぐ。

『延喜式神名帳』にある「蜂前神社(遠江国・引佐郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

第15代応神天皇11年3月8日、八田毛止恵が勅命によって遠江国へ下向して、合計123町歩あまりを開墾して八ケ前(はちがさき)の地に熯速日命を勧請したのが創祀。

開墾したのは、後の祝田村である八田45町、後の刑部村である広田70町、後の瀬戸村である岩瀬8町3反。

草創直後から現社号を称したというが、もとは八ケ前神社だったのではないだろうか。それが後に、読みから転訛して現社号が定着した、と考えられる。

第19代允恭天皇の御代、左脇宮(甕速日命)、右脇宮(武甕槌命)の脇宮二社が勧請された。この頃から、鳥飼明神、羽鳥大明神と呼ばれた。

『日本三代実録』貞観8年(866年)12月26日の条に「遠江国鳥飼神に従五位を授く」とあるのが当社のことだとされる。

その後、延長5年(927年)、現社号に復したという。というよりも、この年は『延喜式』成立年であり、これ以前までに式内社名に復した、と理解した方がよさそうだ。

その後、八田、上刑部、下刑部、岩瀬、石岡、五日市場、廣岡の7ヶ村は当社を大氏神と崇め奉ったと伝わる。

戦国時代になると、今川家・井伊家の崇敬があり、社領も寄せられたという。当社には、全国で唯一、井伊直虎の花押のある古文書が伝わっている。

いわゆる「井伊直虎関口氏経連署状(いいなおとらせきぐちうじつねれんしょじょう)」である。今や、式内古社というよりも直虎花押の神社の方が通りがよい。

永禄9年(1566年)、領主となった直虎に、ある困難が立ちはだかる。当時遠江を支配していた今川氏真による「徳政令」の押し付けである。

直虎は当初この命令を拒否するが、圧力に対抗しきれず、2年後ついに徳政令を受け入れ、結果領主の座を追われる。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』でもおなじみの場面。

その中で、次郎法師(井伊直虎)と争ったとされるのが当社の祝田禰宜。当地の市場を管理していた実力者だ。

当時は寺社が利権に絡むことは珍しいことではなかったが、戦国武将同士の争いにも介入していたところに、往時当社の影響力の大きさが読み取れる。

現在、この連署状は浜松市博物館で保管されている。当社ではこの連署状の他、井伊直平、直盛などの書状を複写資料で社務所などで見ることができる。

安土桃山時代になると、徳川家康が伊奈忠次に命じて社領5石を寄進した。江戸時代になり、これを朱印に改め、明治まで続いた。

明治になり、村社に列した後、明治41年(1908年)1月12日には神饌弊帛料供進社に指定された。大正12年(1922年)2月12日、郷社に昇格した。

例祭は10月中旬の日曜日。往時、例祭では榊葉の白弊を奉幣し、御飯75膳、すなわち早苗田の新米3升3合を充てた。御神酒、新醸の清酒を壺に入れて献じた。

また、お肴、御料理、生姜10片、柿10顆、栗10顆、松魚節5本、鮮魚10尾を献供した。外に牛の舌と名付けた円長形の餅を作って、氏子一族へ配布した。

また小円形の餅を製して、投げ餅にした。これらの献供取扱者はいずれも浄身して、覆面を掛け、謹んで献供する習わし。現在も牛の舌は続けられているという。

参拝すれば、御朱印を頂ける。ただし、社務所が空いている時間は土・日・祝日の10時から16時まで。

当社では、直虎にちなんだオリジナル御朱印帳を用意している。赤と黒の色違い2種、阿も手側に直虎の花押があり、裏側に当社名が入っている(1500円)。

あまりの人気のため、この御朱印帳はたびたび売り切れになり、入手が難しいとされている。また、直虎花押入りの限定御朱印がある。

授与品も豊富で、お財布などに入れやすいカードタイプの御守りを含め、何種類かのお守り類が用意されている。

遠州綿紬の生地に直虎の花押の刺繍が入っているものがあり、中には天竜ひのきの御内符が入っている。お守りらしくない生地やカラーがかえって斬新と人気。

他に直虎の花押入りの袱紗や和蝋燭を販売している。参拝者用の無料の駐車場がある。

【ご利益】
事業成功、産業振興、地域安全、家内安全、厄災除け(公式HP
蜂前神社 静岡県浜松市北区細江町中川
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