笠狭の碕の当地で生まれた火明命を祀る「彦権現の宮」
荒武神社 宮崎県西都市荒武418
[住所]宮崎県西都市荒武418
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荒武神社(あらたけじんじゃ)は、宮崎県西都市荒武にある神社。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。

西都原古墳群の南、約10キロ。大字荒武字馬場田に鎮座し、御祭神は天孫の御子である火明命の御神霊を祀り、往古は東宮大明神と称した。

火明命と言えば、通常は天火明命。天孫瓊々杵命の兄を指す場合が多い。ここでは火照命か、火須勢理命を指しているようだ。

創祀年代は不詳。古老の伝えによると、瓊々杵命が笠狭の碕に行幸した時、大山祇命の二女である木花咲耶媛命を皇妃とし、当地において生まれたのが火明命であるという。

『古事記』に「笠紗之御前」、『日本書紀』に「笠狹之碕」とある、瓊々杵命の降臨地について、諸説ある。

降臨地は宮崎県、鹿児島県などいくつか候補があるが、「笠紗」「笠狹」の地名はすでに失われて久しく、特定できないという。

近代に鹿児島県で笠沙村・笠沙町が生まれたが、これは付会とされる。しかし、宮崎県のこの西都原古墳群近くには「笠紗之御前」伝承を伝える神社が複数ある。当社もその一つ。

当地は都於郡高屋の山陵として、彦火々出見命の山陵の地とも伝える。鎌倉時代末期の正中元年 (1324年-1326年)、山陵を山下に移し、大彦の権現として奉祭した。

その後、また遷座して荒武村字神山田権現山に祀った。領主の伊東、島津両氏より厚く尊崇され、島津氏の代には社領10石が寄進された。

江戸時代前期の延宝8年(1680年)11月22日、島津山城守久寿が「彦権現の宮」一宇を再興した。

さらに、江戸時代中期の享保18年(1733年)11月、下三財に遷座し、文化戊辰年11月、というから、江戸時代後期の文化5年(1808年)、再興された。

明治維新の際、東宮神社を当社に合祀し、現社号に改称した。明治4年(1871年)、村社に列した。

大正8年(1919年)、現在地に遷座し、稲荷大明神を合祀した。御祭神は、家内安全の彦火火出見命・火明命、産業繁栄の稲荷大明神。

境内案内によれば、学業成就の浮舟城の天神も祀る。例祭は11月24日。6月24日に夏祭が行われる。ちなみに、都城市にも当社と同名の神社がある。

【ご利益】
家内安全、五穀豊穣
荒武神社 宮崎県西都市荒武
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