田中明神とも呼ばれた石田の社の地に遷座、江戸中期の本殿
天穂日命神社 京都府京都市山科区石田森西66
[住所]京都府京都市山科区石田森西66
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天穂日命神社(あめのほひのみことじんじゃ)は、京都府京都市山科区石田森西にある神社。地下鉄東西線の石田駅のすぐ近く。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 山城国 宇治郡「天穂日命神社」に比定される式内社(小社)、久世郡「石田神社」に比定される式内社(大社、月次・新嘗)の論社。近代社格では村社。

当社の創祀年代は不詳。『日本三代実録』貞観4年(862年)6月15日に「天穂日命神」は官社に預かり、6月18日に正六位上から従五位下に進んだ。

かつて、石田村集落の東方丘陵地に鎮座していたという。宇治川を渡って山科に入り、逢坂山を越える道筋にあり、その岡の上にあった。

逢坂山を越えようとする旅人は、この社に幣を捧げたという。その後、西方の現在地、田中明神が祀られていた石田の社に遷されたという。

石田の社については『万葉集』に下記の歌が収録されており、当社は万葉遺跡・石田の社でもある。
巻9 1730
山科の 石田の小野の ははそ原 見つつか君が 山道越ゆらむ

巻9 1731
山科の 石田の杜に 幣置かばけだし 我妹に 直に逢はむかも
下って鎌倉時代、順徳院が下記の歌を歌っている。上の1730の藤原宇合の歌とともに、当社境内には石碑が残る。
ひぐらしの 涙やよそに 余るらん 秋と石田の 森の下風
『雍州府志』に「田中社」とある。そこには、「木幡の東北にあり、須麻神社と称す。また、石田と称す。天照大神・日吉二座なり」と記されている。

この田中社は、第40代天武天皇(在位:673年-686年)の時、この里に、一夜の間に稲を積むこと数尺、その上に白羽の矢があったという。

老翁が現れ、「この地よろしく天照大神ならびに日吉社を鎮座すべし」「しかるときは、永く帝都南方の守護神とならんと」と宣告した。

この稲(苗)が積まれた場所を苗塚と称し、現在も当社境内にその遺跡が残る。いつの頃か、当社、田中神社、石田の社、つまり石田神社は合祀され、一体化したらしい。

現在の本殿は江戸時代中期の天明3年(1783年)の造営。明治になり、村社に列し、明治10年(1877年)、府より式内社に認定された。

御祭神は、天穗日命。相殿に天照大神・大山咋命を祀る。例祭は11月3日。

なお、式内社「石田神社」の論社は他に、いずれも八幡市八幡で、岩田里岩田茶屋ノ前(岩田大将軍)に式内同名神社がある。

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天穂日命神社 京都府京都市山科区石田森西
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