奈良を勧請とも、江戸中期の式内再興も、明治に式外認定
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町福里341
[住所]岡山県瀬戸内市長船町福里341
[電話]0869-26-2428

美和神社(みわじんじゃ)は、岡山県瀬戸内市長船町福里にある神社。県道83号飯井宿線沿いの国府小学校の北500メートル。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 備前国 邑久郡「美和神社」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。社伝によれば、奈良大神神社から勧請されたと伝えられている。また、東須恵の美和神社を分祀したとも伝えられている。

式内社「美和神社」の神階は、『備前国式社考』によれば従三位、応永(1394年-1427年)・明応(1492年-1501年)の神階記によれば正三位となっている。

江戸時代前期の寛文6年(1666年)、当地方にあったいくつかの淫祠を集めて、多賀神社境内に寄宮を建てて祀った。その中に当社も含まれていたという。

江戸時代中期の延享3年(1746年)、岡山藩に対し再興願いが出された。翌延享4年(1747年)、式内社認定という重大事から、藩主池田継政が江戸幕府に再興伺いを提出。

その3月25日、富岡名主権平は岡山からの帰途、亥の刻頃、服部の宇佐八幡宮の正面2町ばかり前の道で遙拝していた。

その時、西方から火の玉が飛来して、宇佐八幡宮社殿の上に止まり、しばらくしてそのまま消え失せた。

翌26日、岡山から飛脚が到来し、江戸からの飛脚により、当社再興が許されたこと、前夜の火の玉はまさに当社の御神霊であることが伝えられた。

そこで服部の宇佐八幡宮の社殿で、御神体を御装束し、福里へ奉遷、寛延2年(1749年)、当社は正式に再興された。

しかし明治になり、当社は式内社として認められず、式内社は当社の勧請元との伝えもある先の東須恵の当社および式内同名神社となった。

また、一時期当社が合祀された多賀神社の境内にも、現在に至るまで、美和神社がある。

当社の御祭神は大物主命。例祭は10月23日・24日。

【ご利益】
厄災除け、地域安全、家内安全
美和神社 岡山県瀬戸内市長船町福里
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