銀山上神社の境内社の旧地か本宮か、残る「神離の跡」
都々地神社 長崎県対馬市厳原町久根 矢立山山頂
[住所]長崎県対馬市厳原町久根 矢立山山頂
[電話]-

都々地神社(つつちじんじゃ)は、長崎県対馬市厳原町久根の矢立山山頂にある神社。あるいは神社跡、祭祀場跡。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 対馬国 下県郡「都都智神社/都々智神社」に比定される式内社(小社)の論社。

矢立山は、対馬の最高峰で、標高648メートル。車で行ける、登山口から山頂までは思いのほか近く、急げば40分ほどで到着できる。

急登もなく初心者でも登頂可能。山頂は半径40-50メートルの範囲で木々を伐っているので、眺望がすばらしい。

現在は銀山上神社の境内社になっている都々地神社の当初の鎮座地。創祀年代は、初代神武天皇の御代と伝えられている。

御祭神は建彌己己命(たけみここのみこと)。建彌己己命は高魂命五世の子孫。神武天皇の時、津島(対馬)県主となった。ただし、本来は矢立山を祀るという。

矢立山は昔は、都々智山と呼んでいたが、後、第11代垂仁天皇の后狭穂姫を加祭して矢立山と称するようになった。

それによれば、第9代開化天皇の孫である狭穂彦が謀反を起こして稲城に殺され、その際、実妹の狭穂姫は逃れて対馬の佐須川に忍び住んでいた。

しかしある時、狩人が誤って狭穂姫の胸を射抜いてしまい死んでしまった。その後、祟りがあったので、これを祀り矢立山と呼ぶようになった。

『古事記』でもハイライトの一つである狭穂彦・狭穂姫の悲話だが、ここでは、その続編が脈々と語り継がれている。

式内社「都都智神社」は平安時代前期の承和7年(840)11月、官社に預かっている。

当社はいずれかの時期に現在地に遷座した。資料には、「社は無く、頂上の森に、神離の跡があり」とある。

旧地か、あるいは、当社の本宮に対する、銀山上神社の境内社は里宮か。明治7年(1853年)、村社に列した。

なお、平成28年(2016年)4月1日、国土交通省国土地理院のホームページ「日本の主な山岳の標高」において、矢立山の標高値が変更された。

もともとは648.52メートルだったが、648.40メートルに改定され、少数第1位が四捨五入されるため、従来649メートルだったが、改定後は648メートルになった。

式内社「都都智神社」の論社は他に、美津島町の郷崎尾崎に式内同名神社がある。

【ご利益】
諸願成就
都々地神社 長崎県対馬市厳原町久根 矢立山山頂
【関連記事】
長崎県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、長崎県に鎮座している神社の一覧