湯本温泉の湯屋権現、式内・阿多彌(あたみ)社の論社
熊野神社 長崎県壱岐市勝本町立石南触584
[住所]長崎県壱岐市勝本町立石南触584
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熊野神社(くまのじんじゃ)は、長崎県壱岐市勝本町立石南触にある神社。湯本温泉に近い、立石南触の山中にある。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 西海道神 壱岐国 壱岐郡「阿多彌神社/阿多弥神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。『壱岐風土記』によれば、昔、足海に着津したものを、当地の豪族橘氏によって奉斎されたことが起源だという。

足海は、あるいは樽見、垂水とも書き、「たるみ」と読む。紀伊熊野大神と同体で、熊野大権現として崇敬された。

また、橘貞兼が高麗征伐の勅命を賜り、その際熊野大神に祈願し、帰国後、熊野から御神霊を迎えた、とも伝わる。橘貞兼は不詳。

さらに、布代城主が勧請したとも、上川に居住した立石氏が勧請したとも。奈良時代の天平2年(730年)、遣唐使多治氏廣成が官命により鎮座したとも。

左右矢大臣の銘に、室町時代の文明9年(1477年)とあり、願主同作者橘頼兼の名がみえる。

『神社考』によれば、立石村の海辺に温泉があり、昔は当地は「あたみ」と呼ばれていた。今は湯本(湯の本)という。温泉に近い熊野権現、ということで、湯屋権現とも。

江戸時代前期の、正保4年(1648年)、社殿の造営があった。願主は国主松浦鎮信、当時の神主は立石刑部橘廣貞だった。

寛文2年(1662年)、宝殿が造営された。やはり鎮信によるもので、この時は立石刑部の弟である堤主馬が社司だった。

延宝4年(1676年)、式社改めを行った橘三喜は、当時の当社神主だった橘廣貞の次男だった。

その橘三喜は、式内社「阿多彌神社」を、当時「アタミ畑」と呼ばれていた、立石東触の石神に比定した。

しかしこの「アタミ畑」はアザミからの転訛で、温泉とは関係ない、という説が今では有力で、温泉のアタミの地である、当社が式内社ではないか、という。

元禄2年(1689年)には大鳥居が建設され、幕末の天保15年(1845年)にも長谷川栄左ヱ門により鳥居が献納された。

当社は平戸藩主が一貫して崇敬した神社で、大祭に際しては神幸式、流鏑馬の神事が馬廻りの武士の代参のもと執行された、壱岐の神社十七社の一つ。

明治9年(1876年)、村社に列した。明治10年(1877年)には石燈籠一対が献納され、明治40年(1907年)7月、神饌幣帛供進社に指定された。

大正8年(1919年)、石垣が改修され、昭和4年(1929年)には御殿・拝殿が新築され、昭和37年(1962年)には御手洗所が新築、平成元年(1989年)には拝殿が修理された。

御祭神は、伊弉册尊素盞嗚尊・事解男神・速玉男神。

現在は相殿に、天照大神国常立尊正哉吾勝々速日天忍穂耳尊天津彦々火瓊々杵尊彦火々出見尊軻遇突知命埴山姫命罔象女神稚産霊神大山祇神を祀る。

当社には霊剣(銅鉾)が伝わる。弥生時代か、それ以前のものとされる。箱の銘には寛文11年(1671年)、松浦肥前守源朝臣鎮信とある。

例祭は10月29日で、神幸祭、大神楽奉奏。浜殿において餅撒き、漁船パレード、假装行列があるという。11月27日が神迎祭。

境内社に、稲荷神社・正八幡神社・素盞嗚神社・北山神社・祖霊社(立花社)がある。

【ご利益】
無病息災、身体壮健、厄災除け、病気平癒
熊野神社 長崎県壱岐市勝本町立石南触
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