往古は建石神社と呼ばれた式内論社、10月宵宮神事、多くの立石群
[住所]徳島県三好郡東みよし町中庄1187
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八幡神社(はちまんじんじゃ)は、徳島県三好郡東みよし町中庄にある神社。もとの東みよし町中庄字村道南。金丸八幡神社とも呼ばれる。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 南海道神 阿波国 美馬郡「田寸神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

創建年代は不詳。明治28年(1895年)の古社取調書によれば、往古は建石神社と称し、大己貴命を祀っていたという。

この建石神社が式内論社。中古になり、字明ノ堂に鎮座の金丸神社を合祀し、金丸神社と称するようになった。

鎌倉時代から室町時代にかけて、当地は「金丸庄」と呼ばれ、京都醍醐寺の領地だった。往古は境内東に別当寺があった。

三宝院文書の寛喜3年(1231年)3月28日付の成賢僧正譲与状の中に、遍智院領として「阿波国金丸庄」の名が見える。

醍醐寺三宝院は近世期には真言派修験(当山派)のセンターとして強大な勢力を持つに至るが、中世期の醍醐寺(修験)も、当地の宗教文化に少なからぬ影響を与えた。

同じ中庄にある五滝神社は往古、滝の丸の山上に鎮座していたことにより清滝十二社権現と称したが、清瀧権現は醍醐寺の守護女神である。

金丸三ヶ庄、つまり中庄・西庄・毛田の金丸郷一円の氏神である。いつしか、武家の命により、金丸郷八幡宮と改称した。

江戸時代前期の慶長11年(1606年)遷宮の棟札を有する。祭典は旧金丸三ヶ庄氏子により行われ、江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)までは退廃に傾いていた。

しかし、享保12年(1727年)、神主金太夫西庄益太夫、毛田神職都合神官神職6名導師長善寺林下寺立ち会いで、例祭を執行するようになったという。

さらに正八幡宮に改称し、明治3年(1870年)、現社号に改称した。御祭神は応神天皇神功皇后仁徳天皇・天津加佐比古命・竹内宿禰命

天津加佐比古命は、やはり式内社「天都賀佐比古神社」(論社に美馬市美馬町の西荒川)の神名。

当社で祀られている理由は分からず、これは往古の大己貴命の誤りではないか、との指摘もある。

例祭は10月15日で秋祭。前日が宵宮で、宵宮神事として知られる。「降神の行事」と「神代神楽」の二つからなる。

降神の行事は、庭燈を焚き、その明かりで拝殿の前に吊り下げた「おんじゃく」を前後に揺り動かして神を神殿に迎えるもの。

その後に神代神楽が行われる。「剣の舞」と「乙子(おとご)の五郎の舞」の二つがある。

剣の舞は、氏子から選ばれた「剣の舞人」が、太刀と扇をもって「五方堅め」を行い、最後に剣を頭上でまわして、悪病、悪魔を退散させて舞は終わる。

乙子(おとご)の五郎の舞は、五人の舞人によって、昔大王の御子五人の皇子が財産分配にまつわる伝説を踊化したもの。

財産を平等にわけあって、仲良く暮らすという」素朴ながら勇壮な舞である。県下で古い形のままで、こうした秋祭りの行事が残っているのは珍しく、県指定無形民俗文化財。

本祭では、午前中に例大祭の神事が行われ、午後から神輿の御旅所渡御があり、かつてはだんじり2台だったが、現在は1台が供奉する。

当社のミコシをかつぐと、その1年風邪をひかないともいわれている。他に、4月15日が春祭、7月15日が夏祭。

当社の境内をとり囲む立石を磐境、神籠石または結界石・玉垣石、皇護石ともいわれている。このような立石は、全国でも例がないといわれている。

東西約114メートル、南北65メートル、いずれも結晶片岩で幅1.5-2メートル、厚さ0.3メートル、地上1.2-1.5メートル、地下約1.5メートル埋っている。

総数は実に387個で、付近にはなお相当数が埋っているとされる。往古の当社旧称「建石神社」にも符合し、それ以来の伝統とも。

ただし、それほど古いものではなく、近世、玉垣の代用として設けられた、ともされるが、現存の規模でも、相当稀有なものである。

明治になり、畑作の邪魔になるこの石をのけようとした人々があったが、いずれも腹が痛んだり、怪我をしたりするので、今はもう誰も石に触ろうとしないという。

他に、ある時、盗人が当社の御神体を桶に入れて盗もうとしたら、神殿の階段で立往生したとも伝わる。

なお、式内社「田寸神社」の論社は他に、加茂の式内同名神社鴨神社、美馬市脇町の西照神社、三好市井川町の武大神社がある。

【ご利益】
無病息災、厄災除け、安産、地域安全
八幡神社 徳島県三好郡東みよし町中庄
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