岩屋権現・岩穴宮、稲田氏の剣を奉じた一族、下道臣の祖とも
[住所]広島県福山市山野町山野262
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多祁伊奈太岐佐耶布都神社(たけのいなたきさやふつじんじゃ)は、広島県福山市山野町山野、上原谷にある神社。岩屋権現、岩穴宮として知られる。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 安那郡「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。

山野峡県立自然公園内の、石灰岩巨大礫のほら穴の中にあり、古代信仰の名残をとどめる。この巨大礫は、県指定の天然記念物になっている。

赤色の凝灰岩質礫岩の上に、高さ30メートル、幅33メートル、奥行35メートル以上の巨大な石灰岩塊があり、下部がほら穴で、天井から鍾乳石が垂れ、下から石筍も成長している。

創祀年代は不詳。第21代雄略天皇の御代、創立とも。古代、当社の東にある馬乗山を拝する祭壇が岩穴内に設けられ、社殿が建立されたものだという。

岩屋権現・岩穴宮の他、原田巌窟権現、原田権現、岩穴大権現、巌窟権現、磐穴宮などと呼称された。「(上)原谷の権現さん」と親しまれている。

式内社「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」とは、「武けき伊奈太氏の木鞘の剣」「武けき伊奈太氏の佐耶布都」と考えられている。

つまり、伊奈太氏(稲田氏)の剣を祀った神社であり、出雲斐伊川上流を拠点とした、鍛冶氏族である稲田氏が砂鉄を求め、山陽側の小田川流域へ進出してきた。

御祭神は、素盞嗚尊奇稲田姫命とも考えられるが、当社案内では、主祭神は下道国造兄彦命。『日本書記』巻10、第15代応神天皇22年9月の条に下記の記述がある。
天皇が淡路から吉備の小豆島へさらに葦守宮に遊び給うたとき 御友別という者が参り一族こぞっておもてなしをしたので 天皇は非常に悦ばれ 吉備国の中の川嶋縣という所を長子(長男)の稲速別に事依す是は下道臣の始の祖なり
岡山県小田郡矢掛町に、下道氏墓がある。奈良時代の学者吉備真備の父、下道朝臣圀勝は弟の圀依と、和銅元年(708年)、母を火葬して納骨したもの。

『古事記』には御友別(御友別命)・稲速別の記載はないが、御友別命は稚武彦命の裔孫とされ、稚武彦命(若日子建吉備津日子命)は「吉備の下の道の臣、笠の臣の祖」とある。

少しさかのぼり、第12代景行天皇の皇子である日本武尊が穴海の海賊を討ち、それを追って当岩穴附近において平定したと伝わる。日本武尊宮簀姫命・建稲種命を合祀。

大穴母智神も併せて祀る。江戸時代は、福山藩主が直参したとも伝わり、明治元年(1868年)には式内社認定され、翌明治2年(1869年)、現社号に復した。

山野村では産土神杉宮八幡神社が村社に列したため、当社は無格社となった。ただし、周辺の神社を合祀しており、現在、下記の神々を合祀しているという。

大山祇命天明玉神加具土神・素盞鳴命・宇迦御魂神金山彦神金山比売神・奇稲田姫命

現在の社殿は相殿造のようになっており 向って右のお社が当社で少し大きく、左のお社は摂社の赤濱宮(稲田宿祢命)で、少し小さく建立されている。

稲田宿祢命は稲田宿禰のことか。先の伊奈太氏(稲田氏)との関連が考えられるが、『古事記』には、「尾張の直の祖」である建伊那陀宿禰の名が記載されている。

建伊那陀宿禰の娘に志理都紀斗売がおり、その子が品陀真若王。品陀真若王には3人の娘がいて、すべて応神天皇妃になっている。先述の『日本書紀』につながる。

他に複数の境内社が祀られている。当社の例祭は夏祭が7月19日、秋祭が11月3日。

なお、式内社「多祁伊奈太伎佐耶布都神社」の論社は他に、神辺町八尋の二宮神社、神辺町上御領の素盞嗚神社がある。

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多祁伊奈太岐佐耶布都神社(岩屋権現・岩穴宮) 広島県福山市山野町上原谷
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