天鈿女命が東国下向で休息した地、南北朝期の銅製鰐口や神代神楽
[住所]広島県三次市布野町下布野1370
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知波夜比売神社(ちはやひめじんじゃ、知波夜比賣神社)は、広島県三次市布野町下布野にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳山陽道神 備後国 三次郡「知波夜比売神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

国道54号線、いわゆる歴史街道54が県道62号線と交わる近くに鎮座する。布野川の東。北には市立布野中学校がある。

社伝によれば、第29代欽明天皇(在位:539年-571年日)の御代に創立したという。もとは現在地より布野川を越え、西南約1キロの姫ケ嶽という地に鎮座したという。

往昔、天鈿女命が九州日向国より東方に行く時、下布野山で休息したことにより、姫ケ嶽と称するようになったという。

天鈿女命は一般的に、天の岩戸に隠れた天照大神を引き出すため岩戸の前で踊ったことでも有名である。

ただ、この地に関連する天鈿女命の東国下向は、天孫降臨後、邇邇芸命に命じられ、猿田彦命を伊勢に送り届けるためだっただろうか。

後にその地に社を創祀、第10代崇神天皇7年に奉幣があったともされ、欽明朝のものは再建だったともされる。再建は欽明天皇6年(545年)とも。

御祭神は、天鈿女命・布怒豆怒神。布怒豆怒神は基本的には『古事記』にのみみられる神で、娘の布帝耳神が、建速須佐之男命の四世孫である淤美豆奴神と結婚する。

二人の間には、天之冬衣神が生まれ、この天之冬衣神が大国主命の父となる。なぜこの地に、布怒豆怒神が祀られているかは不明。

式内社名からは、御祭神は知波夜比売神か。現在は、知波夜比売神・天鈿女命・布怒豆怒神の3柱を主祭神としている。

戦国時代の天文13年(1544年)、社殿が焼失したが、天文18年(1549年)には再建された。江戸時代後期の寛政12年(1800年)、現在地にあった高尾山八幡宮に合祀された。

この高尾山八幡宮も歴史は古く、奈良時代の天平11年(739年)、下布野、宮の原清水池に宇佐八幡宮の御神霊が現れたので創祀したと伝えられる。

明治5年(1872年)、郷社に列し、明治40年(1907年)には当社御祭神を主神とし、八幡神社の御祭神を相殿に祀った。

相殿神は現在までに、応神天皇神功皇后武内宿禰・須佐男尊・多紀理毘売尊

例祭は10月9日で、秋祭り。農作物の豊作を祝う目的で例年盛大に行われている。特に前夜の奉納神楽は布野神楽団により、夜8時から夜半過ぎまで行われる。

この神代神楽は天保年間(1831年-1845年)に始まるとされる。また、祭り当日は、各地から繰り出される神輿担ぎと、楽打ちが賑やかで、多くの参拝者が訪れる。

明神造の石鳥居一基がある。江戸時代前期の貞享丁卯(1687年)8月に八幡宮に対して奉納されたもので、高さ410センチ、笠の長さ510センチ、柱の間120センチ。

また、江戸時代中期の宝暦4年(1750年)『八幡宮氏下拾四箇村夫割請書一巻』が伝わる。高尾山八幡宮の祭礼に関わる承諾書である。

江戸時代後期の文化14年(1817年)『代官頼杏坪祈晴告文一巻』がある。雨続き、凶作の気配があったため、時の代官頼杏坪が当社に籠って祈願した際のもの。

いずれも市の文化財に指定されている。また、本殿の中の銅製鰐口は南北朝時代初期の建武元年(1334年)の銘があり、県の重要文化財に指定されている。

境内の摂末社に、大仙神社・松尾神社・志賀神社・龍王神社・稲荷神社・剣神社・若剣神社がある。

ちなみに、当社は三次郡唯一の式内社だが、三谿郡に式内社「知波夜比古神社」があり、現在、高杉町三良坂町に論社がある。社名から考えて、当社と関連があると考えられる。

【ご利益】
スポーツ・技芸上達、地域安全、一族・子孫繁栄
知波夜比売神社 広島県三次市布野町下布野
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