開化朝創祀?平安前期に日吉勧請、天満宮と二分、スダジイ
[住所]滋賀県大津市南比良98
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樹下神社(じゅげじんじゃ)は、滋賀県大津市南比良にある神社。南比良樹下神社とも。琵琶湖西岸ほぼ中央、湖西線の比良駅の北、県道558号線沿いに鎮座する。神紋は左三ツ巴。御朱印の有無は不明。

御祭神は鴨玉依姫命。創祀年代は不詳だが、社伝によれば、第9代開化天皇42年、比良大峰に降臨霊跡を垂れ、山上に社を建て、これを祀った、とあるという。

また一説に、第55代文徳天皇の御代、平安時代前期の仁寿2年(852年)、比良大明神の招請により山王十禅師を勧請したとも伝えられる。

住古は比良神を産土神と祀っていたが、平安前期に延暦寺の勢力により日吉山王の神、日吉大社の上七社のひとつ、樹下宮を勧請したものと考えられている。

市内には北小松・木戸・山中町・真野佐川町に、守山市には今浜町と水保町にそれぞれ同名の神社がある。

第62代村上天皇の御代、天暦元年(947年)、当社禰宜の三和良種の一子である太郎丸に神託があり、山城国北野の地と当社境内に天神を祀ったという。

当時は比良宮とも呼ばれていた当社は、北野天満宮の草創に深く関わっていたという。この天神が、後述の当社に隣接する天満神社である。

安土桃山時代の元亀年間(1570年-1573年)、比良山檀陀坊とともに当社も焼亡したが、この兵乱を予知して、神宝、古文書などを蒲生郡八幡山丹羽氏保蔵主家に預けた。

後に江戸時代前期の延宝8年(1680年)、その裔孫である七郎兵衛長辰よりその一部が返送され、現在は当社の宝物になっている。この返進目録も現存している。

少しさかのぼって、江戸時代初期の元和8年(1622年)、比良村が南北に分かれた。

明治5年(1872年)、十禅師と呼ばれた当社を南比良村、先述の天満神社を北比良村の氏神と定め、境内を両分した。

現在も、南側の当社と、北側の天満宮が入口を別々にして並んで鎮座している。その入口を分けるように、スダジイの巨木がある。

幹周8.5メートル、主幹幹周4.57メートル、樹高15メートル。幹が二つに分断されており、大きく空洞が開き、幹周はそれほど大きくは見えない。

スジダイの左の参道が当社、右の参道が天満宮で、その平行する状況は拝殿・本殿に進んでも変わらず、ふしぎな形態を醸し出している。

当社の本殿は江戸時代後期の文化元年(1804年)の建築とされ、一間社流造、間口5尺、奥行1間1尺、拝殿は入母屋造、間口2間1尺、奥行2間1尺。境内社に妙義神社がある。

例祭は4月である。

【ご利益】
地域安全、安産、家内安全
樹下神社 滋賀県大津市南比良
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