那波総社、安閑朝の創祀、天武朝以来の神集祭「ムギマキゴシンジ」
[住所]群馬県伊勢崎市堀口町472
[電話]0270-31-4178

飯玉神社(いいだまじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市堀口町にある神社。県道18号線の飯玉神社前の交差点。名和小学校の北。那波総社、堀口飯玉神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

社伝によれば、第27代安閑天皇元年(534年)、当時の国主が丹波国笹山から御神霊を迎えて、奉斎したのが始まりだという。

第37代孝元天皇の御代、国司が奉幣したと伝わる、というが、孝元天皇は第8代天皇。第37代であれば斉明天皇、その前の第36代天皇は孝徳天皇。

第40代天武天皇の白鳳9年(680年)、勅命により神事式を行った。那波の神事、あるいは麦播神事と呼ばれ、この神事名そのものが当社を指したという。

この麦播神事は神集祭とも呼ばれ、通称は「ムギマキゴシンジ」。現在も、この神事の最中は境内への立ち入りができず、周囲には結界が張られ、厳粛に斎行されている。

平安時代前期の寛平元年(889年)、天災が続いたので、国主の室町中将によって、豊年を祈って社殿が再建された。第59代宇多天皇より神鏡を下賜された。

第67代後一条天皇(在位:1016年-1036年)は郡司に命じ、神殿を改造した。『上野国神名帳』にある「従四位上 郡玉明神」に比定される。

応仁年間(1467年-1469年)以来、田畑が荒れてしまい、農民が困っているのを憂い、領主那波氏が領地内に当社を総本山として、九十九の飯玉、飯福神社を分祀した。

ただし一説に、那波太郎広純が当地を領した際に、氏神とし封内九十九個所に飯玉・飯福を分祠したともされ、そうなれば、平安時代末期のこととなる。

御祭神は保食命(別名は豊受大神)、大國魂命(大国魂命。別名は大国主神)で、ほかに配祀神4柱を祀る。

当社に伝わる神集祭、いわゆる「ムギマキゴシンジ」は、旧暦10月、神無月として、当地域の神々も出雲に集まる。

当地域の神々は、帰途に食物神である当社に立ち寄り、国土の安全と農産業の発展などを話し合い、食物を持ち帰るという。

これに合わせて、旧暦10月末の午の日より、11月の初午まで、境内の出入りや高音などが禁じられる。

同じような祭りは、下植木の赤城神社、柴町の八幡神社、玉村町下之宮の火雷神社にもみられるという。

麦まきに適した時期とされ、麦の豊作を祈念して忌み籠もることに発する祭りなのではないかと考えられている。

上州のこの地方には、上野村野栗神社の川下げ神事、甘楽町天引諏訪神社の麦祭りなど、麦のお祭りが伝わっている場合が多い。

当社の境内社に、十寸穂国笹稲荷神社(国笹・十寸穂稲荷神社。倉稲魂命)、八幡宮、琴平神社、八坂神社などがある。

境内末社は14社とされている。他に神武天皇遙拝所や聖徳皇太子と大きく彫られた碑の前に石祠が2基祀られている。

また、江戸時代後期の文政元年(1818年)銘がある富士山と彫られた額があり、浅間神社(木花佐久夜比売命)が祀られているようだ。

末社の中に、文化5年(1808年)7月、文化13年(1816年)8月の紀年があるものがある。日露戦役記念碑などもある。

ちなみに、当社は那波総社とされ、周辺の飯玉・飯福の元宮と考えられているが、高崎市倉賀野町の倉賀野神社には、「飯玉縁起」が伝わっている。

また、当社からの分祀かどうかはともかく、同名神社として代表的なものに、県内では市内茂呂、前橋市広瀬町と橳島町、藤岡市森、高崎市下中居町、太田市東金井町、佐波郡玉村町五料がある。

埼玉県には熊谷市千代と本庄市の北堀と沼和田にあり、長野県北佐久郡御代田町にもある。

【ご利益】
五穀豊穣、事業成功、家内安全
飯玉神社 群馬県伊勢崎市堀口町
【関連記事】
群馬県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、群馬県に鎮座している神社の一覧
飯玉神社 群馬県伊勢崎市堀口町の御朱印