奈良朝の創祀、榛名神社そのもの、あるいは旧地、群馬八郎の父
戸榛名神社 群馬県高崎市神戸町589
[住所]群馬県高崎市神戸町589
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戸榛名神社(とはるなじんじゃ)は、群馬県高崎市神戸町にある神社。近代社格では村社。県道29号線が北陸新幹線と交差する地点の近くに鎮座する。御朱印の有無は不明。

社伝によれば、奈良時代末期の天応年間(781年-782年)の創祀。『上野国神名帳』所載の「従五位 榛名大取明神」である。

『戸榛名大権現縁起』によれば、群馬五郎満行は第49代光仁天皇(在位:770年-781年)の御宇に上洛、禁中に参内していた頃、紫宸殿に現れた化物を鏑矢で射て退治した。

その功績により、群馬満行は武家の長者、三位の中将の藤原朝臣満行(源満行)となったが、病により亡くなった。

その後、満行の霊魂による様々な怪異が起きたため、帝は勅使を派遣して当地にお社を建立し、満行を神として祀ったのが当社の創祀。

御祭神は、埴山姫命火産霊神速須佐之男命・源満行。『神道集』「第四十八 上野国那波八郎大明神事」には、五郎満行ではなく、八郎満胤の説話が掲載されている。

そこにおいて、当社は、「群馬郡長野庄に満行権現として顕れた」とある、八郎大明神の父群馬太夫満行神。

「上野国那波八郎大明神事」では、五郎満行は八郎満胤の父で、八郎満胤は容貌美麗で才智に優れ、弓馬の術にも長じていたので、父の代理で都に出仕した。

つまり、五郎満行自身は都に出仕していなかった。「上野国那波八郎大明神事」では、父満行の死は簡単に触れられ、その三回忌の後に、八郎満胤が再度上京したとなっている。

他に、清和天皇の三世孫、経基王の子である従四位上検非違使源満季の第三子、群馬太夫満行がこの地に住し、上野国西七郡を領し、当社を崇敬したという。

つまり、満行在世中に、当社は存在していたことになる。善政を施したため、その死後に、住民が当社に満行を配祀、榛名満行大明神と崇めた。

さらに、榛名神社は椿山からこの地に遷座し、さらに今の地に遷座したとも。榛名神社の旧地ということになる。

また、当社が実は榛名神社で、現在の榛名神社が伊香保神社ではないかという説もある。

往古は多くの神地・神戸を有し、社主・社人なども多かったが、中世になって、武家のためにその所領は奪われ、わずかに10町あまりの地のみとなった。

後に、武田信玄、一説には武田勝頼が長野氏を攻めた時、当地に砦を設けて、当社に戦勝を祈願、若干の朱印を附したため、当社は再興された。

江戸時代になると、神領はもう少し増え、存続したが、明治になり、それらの神領がすべて官有または民有地とされたため、衰微した。

明治39年(1906年)12月18日、神饌幣帛料供進社に指定された。境内には本殿・拝殿の他、地神をはじめ、多くの石祠が祀られてる。

なお、市内倉渕町には戸春名神社があるが、当社とは別の神社である。

【ご利益】
産業振興、火防、厄災除け
戸榛名神社 群馬県高崎市神戸町
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