吾妻七社明神「和利宮」旧地、ケヤキの巨樹、5月5日に嵩山まつり
[住所]群馬県吾妻郡中之条町五反田220
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親都神社(ちかとじんじゃ)は、群馬県吾妻郡中之条町五反田にある神社。中之条・湯河原線沿い「ふるさと公園たけやま」の隣。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。標高789メートルの霊峰嵩山(たけやま)の南麓に鎮座しており、嵩山を御神体としている。

古くは『神道集』の「児持山大明神の事」にある吾妻七社明神の和利宮、つまり現在の吾妻神社の旧地だと伝えられる。

当地には「親都千軒」という言葉が伝わっている。中世の屋敷跡があり、その中心と思われる所に「天王石」が残されており、市が開かれたという。宝蔵寺跡もあって、往時は相当の大集落だったとも。

戦国時代には、嵩山城が築かれ、斎藤氏と真田軍との壮絶な合戦で落城した慈話も伝わる。江戸時代になり、村民が中心となって、敵味方の別なく戦没者の供養をしたという。

嵩山城の合戦の影響か、戦国時代のこの頃、吾妻神社が現在地に遷座したと思われる。氏神がなくなってしまった五反田村の村民たちが奉斎したのが当社の起源。

御祭神は須佐之男命。江戸時代前期の元禄6年(1693年)の五反田村の絵図面には、嵩山に「わりのたけ」とあり、当社は「七社大明神」と記載されている。吾妻七社明神の中心的な神社の意、とも。

現在の本殿は、元禄12年(1699年)8月15日の大嵐で大破したため、村中で奉賀して修復をしたもの。

江戸時代中期の享保11年(1726年)9月7日には村中で拝殿を修復、享保13年(1728年)には鳥居を建立した。

享保14年(1729年)2月17日、明神の神位をもらうため、村中から1人につき13文ずつ出し合い、代表者2人が出かけ、「正一位親都大明神」の称号を賜ったという。

明治初年(1868年)になって現社号に改称、明治10年(1877年)には村中すべての神社を合祀、現在は主祭神の須佐之男命の他、17柱の神々を祀る。

御神木のケヤキの巨樹で知られる。原町の大ケヤキに次ぐ県内第2位の巨樹。県指定天然記念物である。

主幹はもうすでに伐られているが、東西に張り出した枝によって樹形を保っている。幹にある大きな瘤を乳に見立て、乳の出の悪い母親による祈願が多い。

このような伝承は通常、イチョウに多いが、ケヤキにみられるのも珍しい。現在は、根元北側がアスファルトで固められてしまっている。

その他、指定境内木として、杉54本・ケヤキ2本が保存すべき木として残され、鎮守の杜を形成している。

例祭は5月5日。子供たちの健やかな成長を願って行われる嵩山まつりと同時期に開催される。山は新緑に包まれ、岩肌にはツツジが咲き、老若男女問わず嵩山に登る。

4月中旬から5月上旬、当社の北側から嵩山の中腹にかけてワイヤーが張られ、約100匹の鯉のぼりが大空を泳ぐ。この勇壮な眺めは、中之条町の風物詩となっている。

平成29年(2017年)9月9日から10月9日にかけて、当社境内にスタジオジブリ作品の精霊にも似た、謎のオブジェが複数安置されたことが話題になった。

これは、茨城・茨城町を拠点に活動するアーティスト浅野暢晴によるイベント「中之条ビエンナーレ」の一環で、「無何有の祭り」(素材:陶)。

無何有(むかう)、つまりこの世の向こう側の祭りを表現した作品。生き物のようなオブジェ群は「トリックスター」として、境内において、人と神の間を表現したもの。

【ご利益】
リフレッシュ、病気平癒、子育て
親都神社 群馬県吾妻郡中之条町五反田
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