子持山の南麓、中腹に奥宮、子授け・安産の守護神、御籠り神事
[住所]群馬県渋川市中郷2910
[電話]0279-53-3605

子持神社(こもちじんじゃ)は、群馬県渋川市中郷にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。

標高1296メートルの子持山の南麓、参道入口の大鳥居から1.1キロほど北上すると、狭い車道の西側に境内がある。

本社からさらに2キロほど登った子持山の中腹の岩の窪みに奥宮が鎮座する。境内左手に、幕末の安政6年・万延元年(1860年)建立の万葉歌碑がある。
児毛知夜麻和影嘉平留氐能 毛美都麻氐宿毛等知波毛 布汝波安杼加毛布
子持山若楓の紅葉まで 寝もと吾は思ふ汝はあどか思ふ
子持山は『万葉集』にも歌われた有名な地だった。創祀年代は不詳。『上野国神名帳』に「従五位上兒持明神」とある。

創祀は、一説には、第10代崇神天皇の御代とも、平安時代初期の第52代嵯峨天皇(在位:809年-823年)の御代とも伝えられる。

第12代景行天皇の皇子である日本武尊が蝦夷征伐の際、密かにこの山に籠って、木花開邪姫命と7柱の大神たちを祀ったとも。

『子持神社紀』によれば、日本武尊が東国平定の際、上野国の国府に至り、豊城入彦命の娘の上妻媛を妃とした。

木花開耶姫命を子持山に奉斎して祈念したところ、御子の岩鼓王が誕生したので、日本武尊は木花開耶姫命の神徳を称え奉り、子持山姫神と号して崇敬したともいう。

若子持神社の由緒によれば、当社はもともと現在の市内北牧の若子持神社の地に鎮座していたが、平安時代に現在の奥宮の地に遷座したという。

南北朝時代の貞治6年(1367年)、奥宮の地に本社を再建。室町時代の享禄年間(1528年-1532年)、上杉民部太夫(上杉憲顕)によって、麓の現社地に遷座した。

上杉、北条、武田などの武家の崇敬が篤く、徳川幕府により朱印地20石を賜った。明治維新後、明治5年(1872年)11月、郷社に列した。

主祭神は木花開耶姫命。迩迩藝命猿田彦大神水蛭子天鈿女命大山祇神大己貴命手力雄命須佐之男命を配祀し、奥宮には日本武尊(倭建命)を祀っている。

ただし『明治神社誌料』には、木花開耶姫命の他に磐筒之女命を御祭神とし、由来は不明だが、古来より相殿(合坐)に祀られていると記されている。

また『上野国志』に、「倉橋宮天皇(安閑天皇)磐筒女大神鎮座」とあるという。『山吹日記』には大己貴命を祀るとも。

奥宮は岩の窪みにあり、周囲にも屏風岩などの巨石が多く、木花開耶姫命の姉神である磐長姫命を祀るともされる。

『神道集』の「児持山大明神の事」には、児持御前の物語で、児持山大明神になる顛末を描いている。当社神の解説なのだろう。

児持山七社、あるいは吾妻七社明神と称される神社の一つで、「児持山大明神の事」を基準にすれば、その中核になる。

拝殿は銅板葺入母屋造平入りで、後方の本殿は神明造と流造を足したような形状。昭和31年(1956年)に再建された。

本殿の右手に、御足形のある石が置かれている。昔、当社が火災で焼けた時、御祭神が奥宮へ避難した際についた足形だと伝えられている。

御足形の後方には夫婦の道祖神も祀られ、境内社が一つある。末社二社とも、大己貴社・大鳥社・諏訪社・稲荷社の四社ともされる。

例祭は5月1日で、太々神楽などが奉納される。その前夜、4月30日夜に奥宮の岩窟で一晩中寝ずに起きておく神事、御籠りがあり、現在も継承されている。

古くから子授け・安産の守護神として近在の信仰を集めてきたが、この御籠りにその秘訣がありそうだ。

ともかく、この例祭の日が格好のハイキング地として知られる子持山の、山開きともなっている。屏風岩や獅子岩など溶岩流で形成された岸壁がクライマーにも人気。

【ご利益】
子授け、安産、身体壮健
子持神社 群馬県渋川市中郷
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