木曾義仲が崇敬した信濃国筑摩郡の式内三社を遺臣が奉斎した社
[住所]群馬県渋川市北橘町下箱田甲1
[電話]0279-52-3489

木曾三社神社(きそさんしゃじんじゃ、木曽三社神社)は、群馬県渋川市北橘町下箱田にある神社。近代社格では県社御朱印の有無は不明。

平安時代末期の元暦元年(1184年)、木曾義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた。

そこで、その遺臣だった今井氏、高梨氏、楯氏、町田氏、小野沢氏、萩原氏、串渕氏、諸田氏などが義仲が崇敬した信濃国筑摩郡の式内社三座を勧請して創建した。

『平成祭データ』によれば、義仲の没後、その遺臣らは一時木曾の谷にいたが、源頼朝の詮議が厳しいので、木曾は安全な隠れ場所ではなくなった。

この時、木曾氏の信仰していた三社の神社の神官だった高梨南学院が、三夜続けて不思議な夢を見た。早くこの神を東の方の安全な地に遷せという神託だった。

そこで遺臣らが相談した結果、御神体を七重の箱に納めて東国へ旅立った。和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、ある村があった。

そこに神を祀ろうとすると、土地の人が怪しんで「その箱は何だ」と尋ねた。遺臣らは「只の箱だ」と答えた。今、その土地を箱田と言う。

しかし神の御告は更に今一度ここを立ち去るようにと下ったので、また人々は旅に出たが、今度は半日にして利根川東岸の山中のある清い泉の所に着いた。

ここで人々は休息したが、その時、御神体の箱をとある石の上に降ろしたところ、箱は石に固く着いてしまって動かなくなった。そこで、この場所、つまり現在地で奉斎した。

式内三社は、岡田神社宇気母智神)・沙田神社彦火火出見命豊玉姫命)・阿禮神社須佐之男命)。創建以来、当社は滝の宮・木曽明神(木曾明神)とも称された。

その後、関東管領上杉氏や、白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬が厚く、神田の寄進や社殿の修復などが行われた。

江戸時代中期の寛政元年(1789年)、火災に遭い、寛政8年(1794年)に再建された。明治20年代には大修復が行われた。明治29年(1896年)、県社に列した。

例祭は4月15日・10月15日。境内には本殿(間口1間、奥行1間半)、拝殿(間口3間半、奥行2間)、幣殿(間口1間半、奥行2間)がある。

また、湧玉の清泉が有名で、セキショウ群落を中心とした全域が、県の環境保全地域に指定されている。

『明治神社誌料』には境内社として、鹿島神社、神明宮、菅原神社、八幡神社、住吉神社、愛宕神社、早虎稲荷神社、八坂神社、薬王神社、厳島神社、大山祇神社が記載されている。

境内には他に、稲荷大神、恵原山大神、御嶽山大神、武尊山大神、猿田彦太神など多くの石祠や石碑が祀られている。芭蕉句碑がある。

また、箱田には木曾三柱神社(きそみばしらじんじゃ)がある。幕末の安政2年(1855年)、当社の神主になった高梨宮之亮は養祖父高梨八千穂と合わなかった。

宮之亮が社殿を荒廃させたとも。この争いが北橘村箱田・下箱田両村の争いに発展。宮之亮は実家に帰り、八千穂は箱田村の箱田将軍塚古墳の上に一社を創設した。

この古墳は、木曾義仲の遺品が埋められたとも、首塚ともされ、当初は拝殿と称して箱田村民がここで神拝を始めた。後に新宮を建立し、当社より分立した。

【ご利益】
厄災除け、家内安全、夫婦和合、五穀豊穣
木曾三社神社 群馬県渋川市北橘町
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