鎌倉期に存在、崇敬された鯖明神、江戸期に京の大物も相次ぎ参拝
飯田神社 神奈川県横浜市泉区上飯田町2517
[住所]神奈川県横浜市泉区上飯田町2517
[電話]045-802-1370 - 御霊神社

飯田神社(いいだじんじゃ)は、神奈川県横浜市泉区上飯田町にある神社。近代社格では村社。飯田大明神とも。現在は御霊神社の兼務社である。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳だが、石橋山・富士川の合戦の働きを源頼朝に激賞された飯田五郎家義(飯田三郎家能と同一人物とも)が創建したとも伝えられる。

ただし、家義が創建したのは下飯田町の左馬神社(鯖神社)か。下飯田町の左馬神社では、明確に家義による勧請・創建の社伝を伝えている。

ただし、当社と飯田神社は境川沿いの両岸に祀られており、対になっていた可能性がある。柳田国男『石神問答』の中の「相模の左馬明神又は鯖明神」の指摘は、両社を分析したものともいう。

当社は、鎌倉時代後期の延応元年(1293年)、再び飯田郷の地頭として就任した飯田三郎能信が奉幣したとも伝えられており、鎌倉時代にはすでに存在していたことは確実。

また戦国時代、小田原北条の時代に上飯田を治めた平山源太郎も、熱心に当社を崇敬したという。

伝承では、もとは上飯田村の一番北である柳明に祀られていたが、江戸時代前期の寛文12年(1672年)、現在の字新田2517番地に遷座したという。

江戸時代後期の寛政12年(1800年)2月、京都北野天満宮の別当を勤めていた式部権大輔菅原長親(長量)が、江戸に向かう途中の戸塚宿で、菊紋入りの「飯田大明神」と書かれた神額を、上飯田村の役人に手渡した。

文化13年(1816年)2月、神祇管領占部朝臣良長が遠路京都から飯田に来て、飯田大明神に幣帛を献上して祝詞を上げて参拝したという。

当時の相当の大物が当地に来て、当社を崇敬したということは、当社が相応の古社であることはもとより、当社周辺に京の有力者とつながる人物がいたことが考えられている。

『新編相模国風土記稿』上飯田村の条には「飯田明神社」とあり、「鯖明神とも唱ふ、村の鎮守なり、稲荷・山王を合祀す、村持下同」とある。

つまり、境川中流域に12社ある鯖(サバ)神社の一つで、当社は特に「相模七左馬(鯖)」の一社だという。いわゆる厄除けの七サバ参りの一社である。

特に、境の神としての多くの伝承も残されているという。当社の御祭神は、左馬頭源義朝・宇迦之御魂大神大山咋大神

明治6年(1873年)、村社に列した。明治20年(1887年)頃には、境内の神楽殿は飯田学校の校舎として使われていたという。

現社殿は昭和30年(1955年)の新築である。境内には横浜市の名木古木にも指定されているヤブツバキがあり、境内には鐘楼があり、鐘がかかっている。

縄文時代、境川沿いは入り海で、当社境内の土手から縄文時代後期の人々が使った注口土器が出土している。

「飯田神社前」というバス停があり、その傍らの御影石の鳥居が、桜や檜の植えられた明るい林に映えている。鳥居前には地蔵像、七観音像、庚申塔、道祖神が立っている。

例祭は10月第1土曜日。夏祭りがあり、境内ではカラオケや奉納演芸などが行われる。御陣乗太鼓も披露される。

【ご利益】
厄災除け、病気平癒、無病息災、商売繁盛、家内安全
飯田神社 神奈川県横浜市泉区上飯田町
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