頼朝の創建、義経の財宝伝説、鶴間神社とも、江戸期棟札
[住所]神奈川県大和市下鶴間391
[電話]046-263-7071

浅間神社(せんげんじんじゃ)は、神奈川県大和市下鶴間にある神社。近代社格では村社。公所浅間神社、鶴間神社とも。参拝すれば、御朱印を頂ける。

創建年代は不詳。源頼朝が創建したと伝わる。であれば、鎌倉時代初期のころか。伝承では、頼朝が富士裾野の巻狩りの帰りに当地を通った。

その際、鶴が舞うのを見て「鶴舞の里」と名づけ、それが転じて「鶴間」という地名になったという。

また、頼朝の弟である源義経は平氏を討滅し、平宗盛を護送してきたが、頼朝の怒りにふれたため、鎌倉に入ることができず、失意のうちに京へ帰ることになった。

当社では、その際、義経は当社で休息し、一羽の鶴が鎌倉の方へ飛んで行くのを見た。「鶴でさえ鎌倉へ入れるのに、凱旋したこの義経が入れぬとは」と嘆いたという。

そして「自分は二度と鎌倉の地は踏めないだろう」と言って、頼朝へのみやげに持って来た珍器・財宝を境内のいずこかに埋めた、と伝える。

さらに義経は、当社の堂に「あさ日さし 夕日かがやく 木の下に 黄金千両 漆万杯」と歌を書いて去って行ったという。

『文亀神名録』(文亀は1501年-1504年の戦国時代)には鶴間神社と登載され、相模81社の巡拝所の一つとして、鶴間郷総鎮守だったと伝えられる。

永禄・天正年間(1558年-1592年)に知行采地の分割・領地替えなどにより、下鶴間村の鎮守になったという。

『新編相模風土記稿』には、江戸時代前期の貞享元年(1684年)再建の棟札が記されているが、現存のものは江戸時代中期の宝永4年(1707年)のもの。

この棟札に「富士浅間大菩薩」とあるところから、江戸時代中期には現社号が定着していたことが分かる。当社の御祭神は、木花開邪姫命

戦国時代末期、長谷川角行により富士講が広められ、江戸を中心に浅間信仰が盛んになり、当社の氏子も富士講を組織して、例祭を6月朔日と定めたとされる。

文久2年(1862年)の村方絵図には、当社に向う道路に「字富士山道」とあり、宝永4年の富士山大噴火による降灰を集めて、富士を型どり塚を築造したともされる。

その後は荒廃したようだが、明治になり村社に列した後、大正13年(1924年)、氏子により社殿が改築され、昭和19年1月4日、神饌幣帛料供進社に指定された。

その際、子之神社(大己貴命)、住吉神社(表筒男命)を合祀した。戦後になり、昭和28年(1953年)8月、宗教法人として神社庁に登録した。

昭和48年(1973年)、国道16号線大和バイパスの新設により境内地を大幅に削られることになり、昭和50年(1975年)につきみ野8-14(下鶴間1437)より現在地に遷座した。

例祭は9月15日、現在は9月第2日曜日で例大祭、子ども神輿渡御などがある。節分の日に節分祭がある。

また、1月15日には左義長祭・どんど焼きがあり、9月1日には鎮風祭が、11月吉日には七五三祭が行われる。

境内末社に、秋葉神社(火之迦具土神)、古峰神社(日本武尊)があり、いずれも火防神として崇敬されている。鞘堂では、合祀した子之神社・住吉神社の奥殿を納めている。

また、平成8年(1996年)、弁財天が当社境内東南に遷座。その石祠には文明元年(1469年)の銘が刻まれている。

なお、当社は市内の上和田下和田の左馬神社などを兼務している。

【ご利益】
家内安全、交通安全、安産、厄除け(公式HP
浅間神社 神奈川県大和市下鶴間
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