世界初の視覚障害者教育施設、杉山和一を祀る、もと本所一つ目弁天
[住所]東京都墨田区千歳1-8-2
[電話]03-3634-1055

江島杉山神社(えじますぎやまじんじゃ)は、東京都墨田区千歳にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

伊勢国安濃津(現 三重県津市)出身の鍼灸師である杉山和一(すぎやま わいち、1610年-1694年)ゆかりの神社である。

和一は幼少期に病気が原因で失明し、江戸や京都で鍼術を学んだ後に開業、大評判となった。5代将軍徳川綱吉は、和一を扶持検校として召し抱え、自身の治療にあたらせた。

天和2年(1682年)、綱吉による鍼治振興令を受け、それまでの和一の私塾を世界初の視覚障害者教育施設といわれる「杉山流鍼治導引稽古所」に発展させた。

元禄5年(1692年)、盲人男性の互助組合組織「当道座」の長である惣検校に任ぜられ、鍼灸・按摩術、地歌三弦・箏曲・胡弓楽・平曲などの音曲家の育成にも尽力した。

和一を高く評価していた綱吉は、ある時「何か欲しいものは無いか」と尋ねた。和一は「唯ひとつ、目が欲しい」と答えた。

それを聞いた綱吉は、元禄6年(1693年)、望みを叶える代わりに本所一つ目の地1892坪あまりおよび河岸附792坪あまりの所領を与えた。

また綱吉は、すでに高齢であった和一が江戸から江ノ島まで月参りを続けていたのを案じ、当地に江ノ島弁財天を勧請し、古跡並みとするよう取り計らった。

和一が拝領した土地の西半分980坪あまりに創建されたのが当社で、「一つ目弁天社」と呼ばれた。本所の弁天として、江戸六弁天の一つとされた。

なお、和一が拝領した、東半分の土地には関八州における当道座の統括機関・惣録屋敷が建てられた。

和一はこの翌年、元禄7年(1694年)に逝去し、後に弟子たちは敷地内に即明庵を建立し、和一を祀った。

明治になり、明治4年(1871年)11月、新政府は盲人官職を廃止。これに伴い、京都職屋敷や江戸惣録屋敷は没収されたが、当社は残され、江島神社と改称。

明治7年(1874年)10月、村社に列した。明治23年(1890年)、廃絶した即明庵に代わり、境内に杉山和一大人命を御祭神として祀る杉山神社が創建された。

大正13年(1924年)2月11日、後の昭和天皇の御成婚の際、和一へ正五位が追贈された。それを記念して造立された石碑が現在も境内に残る。碑文は点字によるもので、珍しい。

大正15年(1926年)、関東大震災により社殿が焼失した杉山神社が再建された。昭和20年(1945年)3月、空襲によって焼失、安永3年(1774年)築造の岩屋も破損した。

昭和27年(1952年)、江島神社に杉山神社が合祀され、現社号に改称された。昭和39年(1964年)11月、破損していた岩屋の修復整備が完了した。

この岩屋(岩窟)は、江の島岩屋を模したもので、和一が最初に弟子入りした山瀬琢一に破門された後、江の島岩屋に籠り修行を行ったことにちなむもの。

修行の満願の日、和一は石につまづき転んだ際、手に刺さった松葉から管鍼術のヒントを得たという伝承がある。岩屋内には和一の石像が安置されている。

当社の御祭神は、市寸嶋比売命。相殿に倉稲魂命大国主命・杉山和一大人命を祀る。

平成22年(2010ねん)、杉山和一検校生誕四百年記念祭が挙行された。例祭は6月中旬。2年に一度、本祭(ほんまつり)となり、町会の御神輿が町内を練り歩く。

毎年5月初旬に行われる「両国にぎわい祭」に合わせて、当社では御神宝展が開催される。御祭神と縁の深い宝物を参観できる。

2月3日には節分祭が行われ、本殿にて「追儺式」を行い、その後、年男・年女を中心に、回廊にて豆まきが行われる。豆の他、菓子も豪快に撒かれる。

橋が架けられた弁天池のほとりには弁財天の石像、そして授与品の勾玉を洗う美玉洗の水鉢が置かれている。

江戸時代後期の文化12年(1815年)に奉納された力石は93貫(約349キロ)と刻まれており、区内に現存する力石では最も重いものだという。

社殿向かって右手奥に、境内末社の杉多稲荷神社がある。すぐ近くに鎮座する初音森神社などを兼務している。

なお、当社は、横浜・川崎の神奈川県と、隣接する町田周辺の東京都に点在している、いわゆる杉山神社の一つではなく、由緒通り、杉山和一を祀る神社である。

【ご利益】
眼病平癒、病気平癒、スポーツ・技芸上達、金運(公式HP
江島杉山神社 東京都墨田区千歳
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江島杉山神社 東京都墨田区千歳の御朱印