日比谷神社の分社、「霊岸島」手前の八丁堀、その旧日比谷町の由来
[住所]東京都中央区八丁堀3-28-15
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日比谷稲荷神社(ひびやいなりじんじゃ)は、東京都中央区八丁堀にある神社。近代社格では無格社。御朱印の有無は不明。

もともと日比谷公園の辺りは、江戸海岸の入江であって、ヒビを立てて海苔を採っていたので「ヒビ谷」と称していた。

室町時代の長禄元年(1457年)、太田道灌が千代田城を築いた時、天地の恵みに感謝して、生命の根である稲霊神を祀るため、現在の日比谷公園の地に奉斎したのが当社の起源。

『東京名所図会』によれば、道灌は地中より鎌倉時代初期の建久年間(1190年-1199年)の作となる御神体を掘り得、これを奉斎したと記している。

天正18年(1590年)、徳川家康が入府すると、千代田城改め江戸城の大拡張工事が始まり、日比谷公園の地に江戸城日比谷御門が建設されることになった。

そのため、代替地を芝口に賜って移転したのが、現在の新橋4丁目13番地。つまり日比谷神社である。日比谷神社は平成の世に遷座、現在は東新橋2丁目1番地。

しかし、その中の稲荷崇敬者は、海岸に祀られないと困るとして、日比谷稲荷大神を戴いて、八丁堀先の干潟を埋築し、社殿を造営して、遷座した。それが当社である。

当社はこの新しい土地の地主神として、丁寧に祭祀されたので、この一角は永い間、日比谷町と公称された。亀島川の亀島橋から高橋まで間の八丁堀側が日比谷河岸と呼ばれた。

当社にも、日比谷神社同様、旅泊(さば)→魚の鯖→鯖稲荷と称された。鯖を食べるのを断ち祈願され、鯖そのものや、鯖の絵馬、扁額が社殿に多く掲げられたという。

なお、鯖に関する信仰としては、神奈川県の境川流域に鯖神社12社がある。

江戸時代中期の寛延3年(1750年)、社地が縮小してわずか26坪あまりとなったという。江戸時代後期の文政12年(1829年)、火災により旧書類などを焼失した。

『東京名所図会』によれば、明治になり、日枝神社神職が兼務するようになったという。御祭神は稲倉魂神とあり、「日比谷町の鎮守」だったという。

大正12年(1923年)9月1日の関東大震災後の区画整理で、当地の日比谷町は、隣接の幸町、長沢町などと合併、八丁堀3丁目と呼ばれるようになった。

『京橋区史』によれば、昭和13年(1938年)末の記録として、「無格社稲荷神社」とあり、御神体は宇迦御魂命・宇気母智命だったという。

昭和20年(1945年)、太平洋戦争の終戦後、住居表示改正で、西八丁堀3丁目を合併し、今日の八丁堀3丁目の一部となった。

以上のように、当社は日比谷神社の分社ともいえるが、日比谷神社が鯖稲荷と呼ばれたものの、あまり稲荷色は出していないのと比べ、当社は稲荷そのもの。

日比谷神社の御祭神は、豊受大神と祓戸四柱大神(瀬織津比売神・速開都比賣大神気吹戸主大神速佐須良比賣大神)であるのに対して、当社は一貫して稲荷神。

また、当社から見て、川の向こうに新川がある。北を日本橋川、東を隅田川、南を亀島川に囲まれたかつては霊岸島と呼ばれた。

霊岸島は、遠島となった囚徒が財産没収された後に流された場所で、新川にもあの狭いエリアに5社ほど神社が密集している。

【ご利益】
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日比谷稲荷神社 東京都中央区八丁堀
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