平安期の勧請、義家・家康が祈願、合戦や大火で何度も焼失
[住所]神奈川県横浜市神奈川区東神奈川1-1-2
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熊野神社(くまのじんじゃ)は、神奈川県横浜市神奈川区東神奈川にある神社。近代社格では郷社。「権現様」として親しまれている。参拝すれば、御朱印を頂ける。

平安時代の寛治元年(1087年)6月17日、醍醐三宝院宮勝覚僧正が紀伊国牟婁郡熊野坐大神(くまのにいますおおかみ)を分祀した。

神奈川郷の鎮守として権現山(幸ヶ谷山上)に勧請し、熊野山社大権現と称した。源義家も東征に際して、武運を祈願したと伝わる。

室町時代の応永5年(1398年)正月、山賊などのために祠宇が焼失、明応3年(1495年)6月、上田蔵人政盛が普請奉行となり、宏荘なる社殿が再建された。

しかし、戦国時代の永正7年(1510年)6月、北条早雲は扇谷上杉氏の家臣上田政盛を味方につけ、扇谷上杉氏・山内上杉氏に対して権現山城で兵を挙げさせた。

この権現山合戦で、早雲は大敗北を喫し、上杉氏との敵対を避け、三浦氏攻略に専念することになるが、当社はこの戦火により焼失した。

安土桃山時代の天正5年(1577年)、近郷の諸人が、金蔵院の時の別当恵賢僧都と相談して社殿を建立、再興された。

天正10年(1582年)、徳川家康が三坂・黒駒の戦いに際して、武運を祈願、また上杉に対する謀反降伏の法を祈請、霊験があって、御朱印領として10石を拝領した。

江戸時代中期の正徳2年(1712)、山上が崩落したので、別当の金蔵院の境内だった現在地に遷座した。

旧山上には本宮として小社を安置し、社地3反8畝10歩を有していたが、明治4年(1871年)6月に上地。現在、権現山の南麓には洲崎大神が鎮座する。

『新編武蔵風土記稿』神奈川町西の町金蔵院の項にも「熊野三社」と記載され、「本社1間に9尺、拝殿2間半に4間。いづれも巽向なり」などとある。

「金川砂子」の「夜宮祭礼」図では、江戸時代後期の当社の賑わいが描かれている。社殿の脇の舞台では神楽が演じられ、参道の東側には囃子屋台が並んでいる。

幕末の慶応4年(1868年)正月7日、駅中の大火により類焼。その後、社殿、神楽殿、神輿庫などを整備した。

御祭神は、国常立尊伊邪那岐命伊邪那美命。明治になり、金蔵院から分離、明治6年(1873年)、村社に列した。

明治17年(1884年)4月4日には郷社に昇格し、明治40年(1907年)4月、神饌幣帛料供進社に指定された。

猟師町の産土神村社諏訪神社と船玉社、慶運寺境内の無格社熊野三社大権現、斉藤分の無格社杉山神社、元字飯田町の無格社熊野大神、元吉祥寺境内の稲荷神社とその末社琴平神社を合併した。

合祀神として、天照皇大神素盞鳴命大己貴命少名彦名命武御名方命五十猛命大物主命倉稲魂命・速玉之男命・船玉之神。

昭和11年(1936年)8月、御鎮座850年祭を執行。昭和20年(1945年)5月29日、戦災により焼失した。

戦後、境内地を米国駐留軍により接収されたため、西神奈川町に遷座、仮殿にて奉祀。接収解除後、昭和38年(1963年)8月、現社殿が再建された。

その後、鳥居、玉垣、氏子会館、戦没者慰霊碑を建設、昭和48年(1973年)、再建10周年記念事業として舞殿、社務所の増改築を完成し、旧観に復したという。

昭和61年(1986年)8月には御鎮座900年祭が執行された。例祭は、8月17日前後の土・日曜日で例大祭。

神輿渡御があり、エイサ~オイサ~の掛け声で、夕暮迫る平川通りから国道を悠然と担いて横断する。

境内社に、金刀比羅社・大鳥社・稲荷社・香取社・鹿島社がある。江戸時代後期の嘉永年間(1848年-1854年)、鶴見村の石工飯島吉六の作という大きく立派な狛犬がある。

境内には公孫樹(イチョウ)の古木が御神木として祀られている。樹齢400年、慶応4年の神奈川大火、昭和20年の戦災で焼失しながらも再生したという。

【ご利益】
厄災除け、家内安全、地域安全、夫婦和合、安産
熊野神社 神奈川県横浜市神奈川区東神奈川
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