「網代の弁天様」足利尊氏が勧請とも、奥の院には大黒天像など
[住所]東京都あきる野市網代城山83
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貴志嶋神社(きしじまじんじゃ)は、東京都あきる野市網代城山にある神社。近代社格では村社。「網代の弁天様」として親しまれている。御朱印の有無は不明。

木立に囲まれた弁天山の中腹に鎮座する。弁天山一帯はハイキングコースとして人気のスポット。

当社の創立年代は不詳。一説に、南北朝時代、足利尊氏が母の守護神として勧請したとも。その後、左馬頭頼氏、つまり喜連川頼氏(1580年-1630年)が再興したとも。

網代村の鎮守で、かつては貴志嶋弁財天といわれた。上杉・前田軍の八王子城攻めの際には、当社の鐘が陣鐘として使われたという。

安土桃山時代の天正19年(1591年)には徳川家康から朱印地5石を拝領した。別当は妙台寺だったという。妙台寺は現在、廃寺。

明治3年(1870年)、神仏分離により、現社号に改称した。御祭神は市杵嶋姫命(挟依姫命)。例祭は3月3日。

境内末社に、神明神社(天照大神。例祭は9月16日)、八雲神社(素戔雄尊。例祭は7月15日)がある。誓約の様子を記した、境内にある当社主祭神の紹介に沿うような形。

当社からすぐの所に奧の院の弁天洞窟がある。ここでは大黒天像や毘沙門天像が祀られている。洞窟内は暗いため、参拝には懐中電灯が必要。

その中の、石造大黒天像は総高35センチ、総幅28センチ、伊奈石製。背面に「文明9年(1477年)丁酉閏正月6日」の紀年銘が刻まれている。

当大黒天像は素朴さの中に雅味があり、中世以来の弁財天信仰の証としても貴重であるという。市の文化財に指定されている。

毘沙門天石像は無銘。また、当社の由緒や、奥の院の名称から考えて、おそらく以前は主尊としての弁財天像もあったと推定されている。

しかし一方で、江戸時代後期の『新編武蔵国風土記稿』には、「毘沙門大黒などの石像を置く」とあり、弁財天像の記載がない。相当古くから弁財天像は失われていた可能性がある。

市内雨間の雨武主神社の神が当社神に用事ができて、当社まで出かけるという内容の伝説が残されている。

秋川昔物語の「大蛇の通った跡」で、雨武主神社の神が大蛇となって、いつもとは違う道筋を行ったところ、多くの谷につかまり、苦労する話。

結局、峰を行くより裾の方を通って行こうとなり、向きを変え、木や草が生えている山の中腹に入ったところ、木や草が西を向いて倒れ、以降、草木は生えなくなった、という。

奥の院からさらに登れば、すぐに弁天山の頂上に到着する。頂上からはあきる野市、福生市方面が眺望できる。

【ご利益】
身体壮健、健康長寿、金運、開運招福、厄災除け
貴志嶋神社 東京都あきる野市網代城山
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