複雑な経緯、大坂夏の陣で三つの卯の日に創祀された若宮
[住所]大阪府豊中市若竹町1-22-6
[電話]06-6863-0025

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、大阪府豊中市若竹町にある神社。近代社格では村社。「若宮さん」として親しまれている。御朱印の有無は不明。

創建年代は不詳。当地の西隣に、奈良時代の天平年間(729年-749年)に行基が興した石連寺があったと伝わる。当地の北方に広がる池々も行基の開墾の名残ともされる。

当社の前身の社は、この石連寺に隣接していたか、石連寺の境内にあったと考えられている。しかし、石連寺は平安時代末期、平清盛によって破却された。

清盛は破却後、当地に自身が崇敬する安芸厳島神社を勧請したようで、古書にも、当社の末社として、厳島神社、市杵島姫神社、弁財天などが散見できる。

平家の没落後、当地は奈良春日社の社領となった。春日社から目代(荘官)が下向し、当地の管轄を行い、荘園の惣社として、春日若宮社の社殿が移築されたという。

鎌倉時代になると、当地にも八幡信仰が浸透、前身の厳島神社の御祭神を包含する形で、八幡三神の招聘がなされ、正八幡宮が創建されたという。

一方、源頼朝が行った検地では、小曽根郷里に住吉神領田(荘園)が存在していた。この神田は領主が不明な状態だったという。少なくとも、住吉信仰の萌芽はあったことになる。

戦国時代になると、当地は、織田信長と荒木村重による戦乱で荒廃、近隣の神社も多く焼き討ちされるなど、焼失した。

しかし当社は正八幡宮として、信長の神社焼き討ちを免れた系統にあったようで、被害はなかったとされる。当地は戦国武将から禁制が多く発布され、篤く保護された。

当地一帯の春日社の荘園態勢は形骸化し弱体化し、豊臣秀吉の頃になると、信長の時代に壊滅した住吉信仰の復興熱が大きくなった。

慶長20年・元和元年(1615年)、大坂夏の陣の頃、当社は住吉神社として鎮座、創立された。豊臣家が滅亡した5月8日、そのわずか4日後の5月12日のことだった。

この創祀の日は、住吉大社の創祀の故実同様、卯年・卯月・卯日だとされ、住吉大社に準じ正しく信仰を継承する宮「若宮」と称されるようになったという。

江戸時代前期の正保5年(1648年)、上総国飯野藩の陣屋が当社の氏地に設けられた。飯野藩主保科正貞が大阪定番となり、摂津国で石高の加増を受けたことによる。

当地には、飯野藩から寄進を受けた手水石や燈籠が残されている。また、江戸時代後期の文政4年(1821年)、当地に福寿院という宮寺が建立された。

福寿院は、岡山津山城主森忠正の内室である大蔵姫の法名。大蔵姫は南郷今西家36代春房の長女で、母は明智光秀の令嬢にあたる。

津山に嫁いで亡くなり、死後、眞影を添えて今西家に送られ、後、石塔を当地に遷して宮寺となった。明治に入り、廃仏毀釈により福寿院は廃寺となった。

当社は明治5年(1872年)、村社に列し、明治42年(1909年)8月、神饌幣帛料供進社に指定された。

御祭神は住吉大神。表筒男神(開運の神)・中筒男神(交通の神)・底筒男神(お祓いの神)の住吉三神と、神功皇后(安産の神)。

摂社に商売繁盛の神である稲荷神社(宇迦之御魂神)がある。末社に、大阪道修町の少彦名神社より勧請した医薬の神である薬祖神社(少彦名命)がある。

また、末社には旧正八幡宮で、産業の神である八幡神社(誉田別命)、旧厳島神社で、水を司る神である水分神社(罔象女神)がある。

例祭は10月10日で秋季例大祭、秋祭り。小曽根地区の禰宜人による獅子舞が伝わり、各地区で楽車や神輿、だんじりも練り出し、賑わう。

7月30日が夏季例祭で、夏祭り。神事の後、夕刻に出店が開店し、大勢の人出で賑わう。2月3日が節分祭で、福豆授与がある。1月15日が古神札焚上祭。

当社の神使は、住吉大神の神使である「うさぎ(兎)」。兎像が残されている他、当社特製のうさぎ絵馬が、社殿前に常設されている。

正殿前両脇に、二対の狛犬が安置されており、親子の狛犬だと地元では伝わる。こうして二対で狛犬がそれぞれ独立して存立し、それが親子だと伝わるのは稀。

【ご利益】
開運招福、厄災除け、交通安全、安産(公式HP
住吉神社 大阪府豊中市若竹町
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