総社、飯縄の法で上杉・武田両家の崇敬、皇足穂命神社の大杉
[住所]長野県長野市富田380
[電話]026-254-2007

飯綱神社(いいづなじんじゃ)は、長野県長野市富田にある神社。全国に祭祀されている飯縄神社の惣社である。飯縄山南山頂に奥宮があり、富田に里宮がある。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東山道神 信濃国 水内郡「白玉足穂命神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

第15代応神天皇の御代、飯縄山山頂に天神大戸道尊を祀り、飯縄大明神と称したのがそもそもの起こり。

本地を大日如来とし 平安時代前期の承和15年(848年)、学問行者が飯縄山に入山して、この如来の尊容を拝したといわれている。

鎌倉時代の貞永2年・天福元年(1233年)、信濃国荻野(信州新町)の地頭である伊藤兵部太夫豊前守忠綱が、飯縄大明神のお告げにより入山し、山頂に飯縄大権現を勧請した。

忠綱の子である盛綱も父に従い入山し、荼枳尼天の法を修得、父より飯縄の法を受継ぎ、飯縄原始忍法を確立、自ら「千日太夫」と称した。

飯縄の法は、管狐を使う独特の法術で、盛綱は飯縄信仰を全国に広げるとともに忍法の祖となった。千日大夫は代々の修験者によって受け継がれ、飯縄大明神に奉仕した。

武門の尊崇も受け、特に室町3代将軍足利義満は、紫金仏の地蔵菩薩像を飯縄山本地仏として寄進し、室町時代末期には武田・上杉両家の深い尊信を受けた。

現在も、山頂を取り囲む岩石上には、武田勝頼が再建したことがわかる武田菱の旧社殿である石祠や、日本各地の霊山を祀った石祠が立ち並んでいる。

江戸時代になり、3代将軍徳川家光も朱印地100石を寄進。この頃、万余の末社を有し、全盛を誇ったという。

飯縄山は山頂より食べられる砂(飯砂)を産し、参籠の行者などは、これを採って食べたことから飯砂山、転じて飯縄山と呼ばれるようになった。

このことから、これは保食神(皇足穂命)の霊徳であるとされ、明治6年(1873年)には長野県庁より皇足穂命神社(すめたるほのみことじんじゃ)の称号が与えられ、郷社に列した。

江戸時代前期から、飯縄山頂をめぐる戸隠神領との境界争いが繰り返された。寛文11年(1671年)の裁判では、飯縄山頂は戸隠神領とされた。

しかし江戸時代後期の天保13年(1842年)の幕府の裁許状では、判決は逆転し、飯縄山は干日大夫仁科甚十郎の支配となった。

この判決を不満とした戸隠神領側は寺社奉行に訴え出、弘化3年(1846年)には両者の間で示談となったが、結局、この争いは昭和の世まで続いた。

現在までに御祭神は、大戸道命大戸辺命保食命の3柱。春の祭典は5月8日と6月5日で、奧社祭典は6月5日に頂上祭と開山祭がある。秋は10月8日・12月8日。

樹高約30メートル、目通り周囲4.82メートルの大スギがある。社叢の中でも特に目を引く巨樹で、幹の部分にキツツキの穴があるほかは損傷もなく、樹勢も盛んで姿もよい。

また社殿に近く、御神木としてふさわしい位置。当社の社叢の高木には過去幾度か落雷があり、その都度、木々は損傷を受けたが、この大スギには今まで被害がない。

「皇足穂命神社の大杉」として、市の天然記念物に指定されている。なお、式内社「白玉足穂命神社」の論社は他に、いずれも市内の皇足穂命神社諏訪社合殿皇足穂命神社皇足穂吉田大御神宮がある。

【ご利益】
身体壮健、武運長久・勝運、健康長寿(公式HP
飯綱神社 長野県長野市富田
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