鹿骨の発祥、「鹿の骨を見て占って、その後に埋めた塚」が正解か
[住所]東京都江戸川区鹿骨3-1-1
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鹿見塚神社(ししみづかじんじゃ)は、東京都江戸川区鹿骨にある神社。御朱印の有無は不明。

この鹿見塚のあるあたりは、昔から鹿骨発祥の地といわれている。鹿島大神常陸(茨城)から大和(奈良)に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病でた倒れた。

そこで、塚を築き、ねんごろに葬った地だという。鹿見塚はかつて7-8メートルに土盛りされた塚に、太い老松が植わっていたという。

ただ、それならば、鹿塚という地名にならないとおかしい。「骨」とあるからには、太占や鹿卜との関係も指摘される。

そうなれば、起源は、上述の春日大社創建にあたる、奈良時代の神護景雲元年(767年)よりもさらに遡り、弥生時代になる可能性もある。

鹿の骨を見て占って、その後に埋めた塚が、当地にもとからあった、その上で、鹿島から春日への遷宮の話が絡んだものになった、ということだろうか。

ちなみに、鹿見塚の地名は、埼玉県川越市、同じく埼玉県吉川町、さらには茨城県潮来市には鹿見塚古墳がある。

当地においては、鹿を埋めた塚の上に建立されたのが、鹿骨4丁目に鎮座する鹿島神社だという。

どちらにしろ、鹿骨は古くから人が生活をしていた地域で、室町時代の応永5年(1398年)の『西御厨注文』では「鹿骨」「一色」「松本」の三つの地名が登場している。

また、鹿骨では多くの板碑が見つかっており、区内で二番目に古い鎌倉時代の正応3年(1290年)9月の銘がある板碑も鹿骨で見つかった。

戦国時代になり、安住の地を求めて、石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が当地を開拓した。

当地の伝承では、本来は奈良時代の春日遷宮と、戦国時代の当地開拓が同時期のこととして語られている場合が散見する。

いつしか塚に植えられた松は寿命が尽き、倒れ、残りの松も伐り払われ、塚も掘り返さたという。昭和42年(1967年)8月、氏子中によって「鹿骨発祥の地・鹿見塚」の碑が建てられた。

台座はコンクリート3段組で、高さ98センチ、碑石は高さ81センチ、幅52センチ、厚さ13センチある。 現在の当社は昭和48年(1973年)に再築された。

【ご利益】
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鹿見塚神社 東京都江戸川区鹿骨
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