桃山期の七間社流造の本殿焼失、その後すぐに復元、10月どんじ祭
[住所]大阪府吹田市岸部北4-18-1
[電話]06-6388-5735

吉志部神社(きしべじんじゃ)は、大阪府吹田市岸部北にある神社。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

千里丘陵南西部に位置する紫金山。現在、当社を中心に風土記の丘、総合公園として整備されている当地一帯は、その昔、吉志部の里と呼ばれ、難波吉志一族の居住地だった。

難波吉志一族は、朝鮮半島から渡ってきた渡来系で、「吉志」は、朝鮮半島にあった新羅の国で使われていた役人の位の称号。

日本に渡ってから吉志・貴志・岐志・吉師と呼ばれるようになった。当地の難波吉志の先祖は、安部難波吉志といい、大阪市阿倍野の四天王寺と関係が深いとされている。

当社の創祀・創建年代は不詳。社伝によれば、第10代崇神天皇の時代に大和国の瑞籬から奉遷して祀られ、「大神宮」と称したという。

崇神天皇の皇居は磯城瑞籬宮(師木の水垣宮)で、奈良県桜井市金屋の志貴御県坐神社がその跡地とされている。

平安時代、淳和天皇の天長元年(824年)、天照御神と改称したという。

現在までに、中央座に天照大神豊受大神、左座に八幡大神素盞嗚大神稲荷大神、右座に春日大神住吉大神蛭子大神を祀る。

古くから極めて壮麗な社殿であったと伝えられているが、応仁の乱(1467年-1477年)の兵火でことごとく焼失、焼け跡には奇跡的に神鏡のみが残されていたという。

村人たちの手によってその神鏡を再び奉祀し、文明元年(1469年)に再建、さらに天文3年(1534年)に中興された。

江戸時代には7柱の御祭神を祀る七社明神と呼ばれ、吉志部5ヶ村の鎮守だった。後に豊受大神を合祀、江戸時代中期以降には吉志部村鎮守八社などとも呼ばれた。

旧本殿は、江戸時代初期の慶長15年(1610年)8月28日に建立された。2代将軍徳川秀忠は、方広寺工事の余材をもって当社殿を造営する許可を与えたと伝わる。

この旧本殿は全国でも類例の少ない七間社流造、また様々な組物や装飾、彩色が施された桃山様式の神髄が見てとれる大変華やかなものだった。

この本殿は国の重要文化財に指定されていたが、本殿再建から400年を目前に控えた平成20年(2008年)5月23日未明、不審火により本殿および拝殿が全焼した。

その後すぐに、これまでの社殿をそのまま再現することを決定、半年に渡る綿密な調査を行って、新たに設計され、平成23年(2011年)5月22日に現在の社殿が竣工した。

例祭は、10月17日。前日の16日の宵祭と併せて、御供物を唐櫃に詰めて町内を練り歩いた後に奉納される「どんじ」をはじめ、太鼓だし巡行、子供神輿などが催される。

4月16日には春祭があり、祭典では、御湯神楽が行われる。宮司が祝詞を奏上した後、巫女が煮えたぎった釜湯に笹を浸して神前を清め、御神楽を奉納する。

1月15日には古神札焼納祭(とんど)があり、2月3日は節分祭で、祭典終了後、子どもたちや総代が豆撒きを行う。

例年、七五三の時期と重なる時期に菊花愛好家が丹精込めて育てた菊花が咲き誇り、大菊花展・菊花献上祭が行われる。

当社と隣接するように、紫金山公園内には吉志部瓦窯跡や吉志部火葬墓がある。吉志部瓦窯跡は国の史跡に指定されている。

延暦13年(794年)、桓武天皇が着手した平安京造営当初の瓦を生産するため、吉志部瓦窯の操業が開始された。現在、平窯9基、登窯4基の計13基の窯跡が確認されている。

瓦窯跡は標高40メートルの東西に走る洪積丘陵の南斜面に、2段に規則的に配列されている。

当社本殿の西方約100メートル、標高30メートルの南斜面で平安時代初めの須恵器の壷が発見され、火葬骨が納められた蔵骨器だと判明した。

この吉志部火葬墓は、上部幅1.2メートル、深さ1メートルの土坑状のもの。土坑内には焼土と黒色灰土がみられた。この墓の主は、この地に関係した僧侶あるいは有力者とされる。

【ご利益】
開運招福、五穀豊穣・商売繁盛、火防、厄災除け(公式HP
吉志部神社 大阪府吹田市岸部北
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